<< August 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

amazon image   amazon image   amazon image   amazon image   amazon image   amazon image   amazon image  
スポンサーサイト 

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | -
デジタルを哲学する―時代のテンポに翻弄される“私” (黒崎政男) 
 本書はデジタル製品やそれに関わる生活様式が社会で定着し始めている現代において「人間と機械」、「アナログとデジタル」、「人間とロボット」といった二律背反するものを哲学的にどう捉えることができるかという主旨で書かれている。また、デジタルによって破壊された既存の価値観についても論及されており、少々クドいのだが、少し考えれば誰にでもわかる当たり前のことを改めて確認することができる。
 この本が書かれたのが2002年ということもあり新鮮さには欠ける印象がぬぐえないが、「機械はとにかく利便性のあるもので、人類発展に不可欠だ」という概念しか持たない人には読んでもらいたい一書である。人間の人間たる所以を認識できるであろうし、未来のデジタル世界に何が求められるのかを自分なりに思索する機会を与えてくれるとも言えよう。
 具体的内容としては、1997年にチェスの世界チャンピオンが、IBMの造ったチェス専門コンピューター「ディープ・ブルー」に破れた話などはなかなか興味深いものがあった。それは数手先を考える人間と数億パターン先の手を考えるコンピューターとの戦いだったという。ところが、この勝利がすなわちコンピューターによる人間の思考への勝利かといえば、それは全く別物であると著者は考える。帰納的なアプローチで戦略を立てるコンピューターと、演繹かつ帰納かつ直観を駆使して日々の生活を送る人間とは、度し難いほどの違いがあるというわけだ。その辺りのことを、様々な事例や言葉を用いながら示している。細かくは本書を参照されたい。

 人間と機械の住み分けを考えるのは「人間の側」である。現在のところ、どれほど頑張っても機械は人間の領域には入って来れないし、人間世界を侵すことも不可能である。人間が機械や文明の奴隷にならないためにも、確かな定見というものを持つことが求められる。そのために哲学が永久になくなることはあるまい。私はそんなことを考えながら本書のページをめくっていた。
| 本ココ! | 13:44 | comments(0) | trackbacks(0)
IT文明論―いまこそ基本から考える(玉置彰宏 浜田淳司) 
評価:
玉置 彰宏,浜田 淳司
平凡社
¥ 693
(2001-03)
 6年も前のIT論だと、かくも新鮮さを喪失するものかと思ってしまうが、それは著者のせいではない。時代の変遷スピードが加速度を増しているということである。2007年現在では参考にすべき題材はあまりないようだ。ただ、ITを社会学の見地から見直そうとするならば、本書の副題「いまこそ基本から考える」というテーマは役立つこともあろう。
 擁護するわけではないが、本書が見通していた近未来はさほど実像を外してはいなかった。予想外だったのは当時推測した以上の圧倒的なスピードでITインフラの拡張が行われたことであろうか。推論の上に推論を重ねる未来観であったため、幾分かの予測が正しくなかったことも今日確認できる。とは言え、それを指摘したところでどうになるものでもない。
 タイトルは『IT文明論』という地球文明的な大きなスケールでの掲げ方をされていたが、どちらかというと「IT世界というものの捉え方」を上手く表現した本ではなかろうかと思う。普段からITに接している人にとっては「当たり前」のことばかりが書かれており、改めて手に取る必要はないだろう。本書の効用とすれば、「IT」と聞くだけでチンプンカンプンに感じてしまう人が、世界とITとの関わりを一般的角度から把握するための入門書とすることが挙げられようか。
| 本ココ! | 15:58 | comments(0) | trackbacks(0)
朝食抜き!ときどき断食!―免疫力・自然治癒力健康法 (渡辺 正) 
 実に明快な論旨で「朝食抜き」の重要性もとい、絶対性を語っている。ざっくり読んで2時間ほどあれば読了できる内容。ようするにタイトル通りのことが言いたいわけである。私なども誰に言われるわけでなく朝食を抜いてきたが、確かに病気らしい病気もしていないし、入院経験もない。健康そのものと言って良いほどである。知人は私の食事の少なさを深刻に心配し、また嘆くのだが、当の私は快適に生きているのだから問題ないと思っていたところに、私の思いをきちんと論理的に説明してくれる医者がいたのでとてもありがたく思っている。
 著者は全く薬を使わない療法を施して、どこの病院でも治せなかった末期ガン患者や糖尿病、リウマチ、神経痛、アレルギー性の病気など、様々な症例を朝食抜きによる生活改善にて数多く根治してきたという。それは人間が本来持っている「自然治癒力」を大いに引き出すことで成し遂げられたものだ。つまり、本来治療と言うのは自然治癒力を阻害する要因を排除することを言うのである。薬物使用による対症療法的治療では、病の根源を打ち倒すことはできない。やはり人間は健康で生きるのが当たり前に出来ているのだから、勘違いや思い込み、習慣によって形成された悪しき伝統を断ち切る必要があるのだ。

・朝食抜きは不健康は大ウソ

 朝食を取らないと栄養不足で脳が活性化しないために活動効率が落ちるという一般論が流布しているが、著者はそれをとんでもない過ちであるという。彼は、人間の体は夜の睡眠時に次の日の活動のためのエネルギーを生成しているのであって、朝起きた時にはもう「活動ができるようにセッティングされている」と断言している。また、「起きぬけに食事をすると腸の正常な働きを阻害する。腸が正常に働かないと自然治癒力が失われるのである」とも述べている。腸をきれいにしないと万病の元になるというのだ。便秘で苦しんだりして腐敗した便が腸内に残ると、そこから様々な悪性の菌が作られて全身に行き渡る。体調不良や気だるさは、まさに腸の働きが低下した結果であり、排便がスムーズにいっていない証拠でもあるという。
 腸の働きを合理的に考えると朝は排便の時間帯であり、決してモノを詰め込んではいけない時間であると考えられる。内臓が排泄に集中しなくてはいけない時に朝食が入ってくると、それを消化する方にもエネルギーを割かねばならなくなる。これが結果として腸の働き(すなわち便通)を阻害し、過剰に内臓を疲労させ、本来の人間の不純物整理のリズムを狂わせていくことになるという。また、食事は副交感神経を刺激するものであることが知られているが、副交感神経は「休憩」を誘う神経であり、刺激されれば集中力は落ち、眠気が増大する。朝食事をするのは逆に午前中の活動に対して効率が悪化する。一般に朝食抜きにすると仕事効率が落ちると論じられるのは、「朝食に慣れた人間が、突如朝食を抜く実験をさせられている」からであり、長期的に見れば、朝食によって内臓を疲労させた人は病気になりやすく、体調不快を訴えるケースが格段に多いのだそうだ。

・とにかく一度読んで欲しい!健康になりたければ朝飯を抜け!

 本書に書かれていることを説明しようとすると、ひたすら丸写し作業になってしまう。とにもかくにも読んでもらうのが一番だ。ダイエットでも体調改善でも、健康維持でも、朝食抜きは非常に効果が高いと著者は述べている。事実、私も朝食抜きであるが、言われてみれば「なるほど!」と思う事がかなり多く書かれていた。私の実生活で、著者の考えに沿っていなかったのはコーヒーの摂取に関してくらいなものだ。コーヒー(ブラック)は個人的に大好きで一日に何杯も飲むのだが、あまり好ましくないらしい。少々量を抑えようかとは思っている。だが、概ね著者の訴えたいことと私の実生活は差異がないように思えた。過度に栄養が足りないのは問題だが、彼によれば、食事のカロリー計算などはさほどの意味を持たないのだそうだ。
 医学的根拠に関しては可能な限り各パラグラフごとに示されているので、安心して取り組んでもらいたい。とにかく言えることは、事実として回復例が相当多いことと、人間そのものの力を使うこと、薬を全く使用しないということ。読み進めいていくと、いかに我々が無知のまま医学というものに無根拠に寄りかかっているかがよくわかる。そうした盲目を払うためにも、まずは読むことで本書の良さを感じることをおススメしたい。参考URLはこちら

ようするに全ての健康のために「朝メシを抜け!抜け!抜くんだ!」ということだ。
| 本ココ! | 03:14 | comments(4) | trackbacks(1)
死にたくないが、生きたくもない。(小浜逸郎) 
 老いの入り口に立った著者が、この先の人生を展望する内容。一見するとニヒリスティックに思える彼の「老いとの向き合い論」だが、実際は老いの現実をどう受け止めるかという「戸惑い」が整理された内容になっている。結論部は若干自暴であるように感じないわけではないが、多くの老い世代を代理した正統派ロジックとも言えるだろう。

 読者である私はまだ「老いの実感」とは距離がある世代だが、それでも確実に押し寄せてくる加齢現象に思いを致さないわけではない。どうしても先人が先に老いて行く訳だが、そこで一体彼ら(彼女ら)が何を考え、老いや己をどのように感じるのかということは、今を生きる「老いていない人間=青壮年」の指針作りに寄与しないことはないだろう。老いを迎えた人達にとって、自分達が一体どんな立ち位置にいるのかを改めて考えることは非常に面倒なことであろうし、ましてそれを整理して他者に伝えようとする努力などなかなかするようには思えない。その点で作者が「老い」というものを社会的、文化的、性的といった各種カテゴリーから考察したこと、そして様々な要素により織り成されたタペストリーである「人生・老い」の実像をわかりやすい言葉で浮かび上がらせたことは評価に値するであろう。

 66億1千500万人の地球人全てに当てはまる論旨ではないが、少なくとも日本という区切られたエリアでの「老い」の一般的感覚は掴めているように感じる。本書は「老い」について、あれをせよ、これをせよとは言っていない。様々な老いの現実を適度(適当)に受け入れたらどうかという柔らかな提案があるのみである。老いを青春と変わらず(気持ちの上では)アクティブに生きていこうと捉えている人には本書は必要ない。老境に差し掛かった自分の立ち位置を自分で決めがたい人には一つの参考にはなるだろう。
| 本ココ! | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0)
がばいばあちゃんの幸せのトランク(島田洋七) 
 あっという間に読めてしまう本である。私は時間にして2時間かからないくらいで読んだ。島田洋七のいわゆる「自叙伝」という位置づけになるのだろうが、奥さんとの出会いと歩みが何とも言えず爽快である。

 とにかく悲壮感がない本だ。涙涙の苦労話などとは全く縁遠い内容である。実際問題としては芸人の道を選んだ洋七は右往左往しながら己の道を切り開いたに違いないのだが、先の見えぬ彼氏とあっさりと駆け落ちし、当てにもならぬ夢だけを握り締めた洋七に「ただひたすらついてきた」りっちゃん(奥さん)の生き様には舌を巻いてしまう。こういうこともあるのだなと感慨深くなる。りっちゃんに関して、文字にして表現するのは何だか実像から遠ざかってしまいそうで怖いので書かないことにするが、読んだ時に受ける「感覚・感じ・雰囲気」を自分なりに汲み取るのが一番だろう。こういう人がいるのなら本当に会ってみたいと思う。せかせか忙しい現代社会だが、りっちゃんのような人を世の男性は必要としているのかもしれない。

 これは島田洋七のシリーズモノなのだが、貫くものは「ばあちゃん」の凄さである。究極の楽観姿勢と人生を生き抜くたくましさには大いに学ぶところがある。そもそも悲壮感が出ないのはこの「ばあちゃん」のおかげであろう。人間ここまで明るく、良い意味で自分に都合よく、そして最後まで楽観を貫けたら幸せであろう。悪いことが起きても、どうにかして「良いこと」への接続を考えている。いや、そのように難しく捉えているのではなく、ごくごく自然にそう考えるクセがついているのだろう。多分、このばあちゃんにかかると、「川で溺れて大変だった」ということも「洗濯が出来てよかったじゃないか」位にしか捉えていないのではないだろうかと私は思う。

 ともあれ、本の構成としてあえて「楽しい」部分を取り上げているのではあろうが、それでも読む者の「気持ちを軽くしてくれる」内容と言っていい。人間生きていれば何かしら重たいものを背負っている事があるだろうが、疲れた時には心の栄養になるかもしれない。たった2時間程度の読書で、暗鬱な気持ちが少しでも晴れるのなら読んでみるべきではないだろうか。

 もしあなたが変わらない毎日を、つまらない毎日を、気が重い毎日を送っているのなら、この一書を是非ともおススメしたい。人生には上りも下りもあるが、夜がふけても朝が必ず来るように、辛い日々は楽しい日々への道のりだということに、ぐっすり寝た後はしゃきっと起きて活動できるように、苦労は成功のための田植えのようなものだということに、この本を読めばきっと気付けるようになるのではと感じるのである。
| 本ココ! | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0)
最近読んでいる本-プリンストン高等研究所物語-(ジョン・L・カスティ) 
ジョン・L. カスティ
青土社
¥ 2,310
(2004-11)
 今、読んでいる本を紹介しておきたい。レビューは読了後に。

 プリンストン高等研究所はアインシュタインやニールス・ボーア、クルト・ゲーデル、オッペンハイマーらの20世紀を代表する物理学者、科学者、数学者が終結していた研究所として名高い。まさに知の巨城である。本書は史実とフィクションを織り交ぜながら、この研究所の物語を綴っている。数学者が抱えている命題や、哲学とのやむをえない接続、彼らが抱えていた真理探究のための貪欲なまでの懐疑心に桁外れの思考を感じ取ることができる。

 彼らが話題にしていたところを多少なりとも垣間見れるということに大きな喜びを感じる。使われている言葉はもちろん、思考の網もやはり難解な命題ばかりだ。だが、彼らとて我々と同じ人類である。人間が考えうる境地というものを遠巻きにも感得できることは素晴らしいことだ。この本が「物語」であることを差し引いても、非常にエキサイティングに人類を揺さぶってくれる。そんな本である。
| 本ココ! | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0)
集団的自衛権と日本国憲法(浅井基文) 
 『集団的自衛権と日本国憲法』とのタイトルを見ても分かるとおり、現在国会で騒がしい憲法改正の骨子部分に相当する分野について書かれている。第2次世界大戦で周辺国に対する侵略行為を行い敗戦した日本が憲法改正問題に鈍感ではいけない。戦争とは無関係の若者にとってもそうであろう。「平和を維持するための軍事」という人類にとっての究極のパラドックスをどのように捉え、また、発展させていくのか。憲法9条をどこに導いていくのか。各政党は国の屋台骨でもある憲法問題を政治利用・選挙利用するなどして議論のホシを貶めることのないようにしなくてはならない。

 さて、本書の構成だが、自衛権(個別的・集団的)について知識がない人が読んでも、その成立背景や国家にとっての意義が捉えやすいように書かれていると感じた。筆者も力説しているのだが、自衛権という考え方も、国家間の紛争の解決手段として有用な組織と見られている国際連合の成立過程もしっかりと捉えておかないと問題の本質を掴み損ねることになる。
 自衛権の特徴は国家に元々備わる権利と定めているところにある。これは正当防衛の権利を個々の人間が持つようなものと解されており、国家が単独で行える「国際法上正当な」武力発動に他ならないということなのだ。これは大げさに言っているのでもなく、かなりリアルな問題なのだ。
 アメリカで起こった9.11同時多発テロの後、オサマ・ビンラディンの潜伏先と見られていたアフガニスタンが空爆を受けた。実はこの報復はアメリカの個別的自衛権の発動だったのである。あのテロはアフガニスタン政府が国家としてアメリカに仕掛けたものではない。あくまでテロリストが行ったもので、本来アフガニスタンという国家が空爆されるいわれはない。だが、アメリカは自国を守る為に遠く離れた中東に爆撃を加える事が「自衛権」の行使だというのだ。国連事務総長までこれをアメリカの自衛権とすることを容認したという。また、同盟国が危機に陥り自衛権を発動しているところを軍事的に助けることが集団的自衛権の発動である。もし日本に9条の憲法規定がなければ、このアフガン戦争に集団的自衛権を行使して参戦した可能性もないわけではないのである。アメリカにテロが起きて、その報復を中東で行うという自衛権行使に日本が付き合う可能性があるというのは恐ろしいことではあるまいか。

 アメリカの真の狙いは世界戦略の中で日本をどのように活用するかということではないだろうか。その為にはどうしても昔GHQが作った平和憲法が邪魔になってきてしまっているようだ。9条の存在はアジア諸国からも決して低い評価は受けていない。日本の戦前の軍国主義によって国土を荒らされた諸国にとっては、超巨大軍事国家アメリカと同盟している日本が平和憲法を維持してくれることが、アメリカの暴走と独善を少しでも和らげるのを期待しているのではあるまいか。仮に日本が9条を改正し、軍隊を正式に認め、政府首脳が靖国を参拝し、天皇は象徴とはいえ存続し、集団的自衛権の行使も認めるような国家になれば、戦前の軍国主義を想起し相当の懸念を抱くのは当然とも考えられる。日本の9条とはまさにそういう類のものなのである。国民投票法が成立する昨今、憲法改正発議までには3年間のモラトリアムがある。この間に平和憲法が世界にとって有益なものになるためにはどうすればよいのか、真の国際貢献の方途とは何なのか、地球の中でも鋭い地域間対立が懸念されているアジアの安定と平和をどのように築いていくのか。国民的議論がどうしても必要となろう。

 ともあれどのような問題についても言えることだが、この国を覆っている大課題は「無関心」の悪魔である。さほど重要でないことに無関心なのは問題もなかろうが、致命的に危機感を覚えるのは、諸問題の価値を把握することができず、適切に自己の態度を表明することが出来ない無関心層だ。とは言っても彼らもこの国の主権者である。主権者が無関心ということは、国のことなどはどうでも良いという選択をしているのに等しい。無関心をどうにかしなくてはいけない。無関心は結局のところ、戦前のように無謀な戦争を誘発する可能性すら助長しかねない。憲法改正問題も、まずは「無関心」の恐ろしさを打ち倒すことができるかどうかが問われているように思えて仕方ない。政治家はそこにあらゆるエネルギーを投じるべきであろう。「知らないうちに憲法が変わっちゃっていたよ…」などといって後々に後悔するような国民をなんとしてもなくさねばならないのである。
| 本ココ! | 08:49 | comments(0) | trackbacks(0)
ドラゴンボール 完全版第15巻 (鳥山明) 
 国民的漫画を通り越して、今や世界的漫画に成長した『ドラゴンボール』を久々に読んだのでレビューしたい。

 面白い。率直に言って今でも夢中になって読んでしまう面白さだ。今回は完全版14・15巻を読んだのだが、丁度サイヤ人2名(ベジータ・ナッパ)が地球に来襲してピッコロやクリリン達が応戦するという場面である。ドラゴンボールは主人公・孫悟空が子供体型から大人体型に遷り変わる過程で、徐々にストーリーも冒険中心から戦闘中心に主題をシフトさせてきた漫画だ。そしてサイヤ人編は悟空の兄であったラディッツが地球にやってくるあたりで大きく戦闘マンガに切り替わるチャプター(章)でもあった。本作において「戦闘力」という表現が出てくるのもこのラディッツ登場からだ。戦闘力を測るスカウターというアイテムもここで初登場。当時、おもちゃになるほど子供にとってスカウターの人気は大きかったように記憶している。

 さて、14巻は主に地球連合軍(ピッコロ・悟飯・クリリン・天津飯・チャオズ・ヤムチャ)とサイヤ人ナッパの戦いが収録されている。サイヤ人編は初めて地球外の敵との戦いが展開されたのであるが、その戦いのスケールは以前のドラゴンボールのものとは全く違うものであった。ラディッツ登場時の恐るべき強さにも随分と驚いたものだが、後からやって来たベジータ・ナッパの二人のサイヤ人の圧倒的な恐ろしさたるや読者の興奮を誘ってやまないものであったに違いない。
 悟空はラディッツを倒すためにピッコロの必殺技を受け死亡する。死後、悟空は界王様の元で修行を重ねてドラゴンボールにより復活を遂げることになる。余談だが界王様の元にいたバブルス君はかなりいい味を出していたキャラであった。アニメ版でのバブルス君の声優は素晴らしい声を聞かせてくれており、あまりにもハマり役だったように記憶する。悟空の弟子入り試験はダジャレで界王様を笑わすこと。悟空は作中で最初で最後と思われる「ふとんがふっとんだ!」のダジャレで難関をクリア。こうした地球に迫っている深刻な危機感と、現場でのゆるーいやり取りの温度差がドラゴンボールの特徴の一つでもある。結果として読者を疲れさせない構成になっていたのではないかと思うがどうだろか。フリーザ編で登場するギニュー特選隊のファイティングポーズや悟飯・ビーデルが演じたグレートサイヤマンのポーズなど、明らかに緊張感とはかけ離れたものであった。特にギニュー特選隊がフリーザの前でポーズを取った時に彼をあっけにとらせるシーンがあったが、あのような緩い「間」があることを私はかなり楽しんだし、また評価したいとも思う。ドラゴンボールの味はあのような場面にも染み出ているように感じてならない。

 さて、悟空が復活して蛇の道を戻るまでの間に地球連合軍はナッパによりほぼ壊滅状態に追い込まれていた。悟飯をかばいピッコロが死亡。バタバタと準主役級が死んでいくシーンでもある。悟空は全滅直前の皆の前に登場しナッパをひとひねりにする。この登場シーンはナメック星でギニュー特選隊を相手に全滅しかかっていた地球人+ベジータの前に遅れてやってきた悟空が彼らを蹴散らす場面と酷似している。ともあれ、ベジータは使い物にならなくなったナッパを消し去り、悟空とタイマンになる。ベジータはとにかくサイヤ人王子の超エリートという言葉を連発するも、悟空との戦いは互角か押され気味で冷静さを失って激昂する姿が目に付く。実力の尺度を門地や生まれの差で測ろうとする思考はこの後のベジータにもずっとついてまわっており、彼の特徴を表す一面でもある。ちなみにナッパも悟空にやられている時に「名門出のオレが下級戦士などに負けるわけが〜」などと叫んでいた。

 予想外の悟空の強さに追い込まれたベジータが人工の月を作り出し大猿に変身するシーンなどは白眉であった。しかも悟空の大猿のように理性を失うことなく的確に対象を定め攻撃することが可能である点、鍛え抜かれたサイヤ人の姿が見て取れる。野次馬的に現場に来ていたヤジロベーによる一世一代のベジータのシッポ切りが成功し、大猿ベジータは縮小。それでもベジータの優位は動かない。悟空はボロボロの体ではあるが元気玉をクリリンに託し、これが見事にベジータに命中。ほぼ死にかけるところまでベジータを追い詰めるも、とどめを刺すまでに至らない。その後ベジータが作った月を悟飯が見ることにより大猿化しベジータを強襲する。ベジータは気円斬のような技を使いご飯のシッポを切り落とすも、悟飯は大猿の姿のまま無意識にベジータに対してパワーボムを見舞う。全くもって圧巻のシーンの連続である。追い詰められた最強戦士ベジータの危機感がよく伝わってくる秀逸なコマ割であった。傷ついたベジータは乗ってきた宇宙船を呼び、悟空の命乞いもあり、どうにか地球を脱出。ひとまず地球は守られたのである。

 以上、悟空とベジータが激突するシーンは15巻に収められている。14・15巻はナッパ・ベジータとの直接対決が描かれており見所は多い。もうドラゴンボールという作品が終了してからかなりの年月が経つのだが、いまだに最新ゲームが発売されるなど人気に陰りを見せていない。ドラゴンボール旋風は一体いつまで続くのだろうか。凄まじい作品である。
| 本ココ! | 08:11 | comments(1) | trackbacks(1)
日本兵捕虜は何をしゃべったか(山本武利) 
 久々に良質な書を読んだ。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』とは帝国主義時代の日本における最前線兵士の内情を分析しようとする者にとって非常に気にかかるタイトルだ。第2次世界大戦に関わる出来事というのはその後の各国のイデオロギーやナショナリズムによってぼやけたり歪んだりして見えやすいが、本書のようなアプローチで追求された「大日本帝国兵士の最前線の姿」は非常に興味深く、またその内容も新鮮かつ鮮烈である。現在では英霊合祀とか靖国参拝問題などで安直な感情論に流されがちな論評も見られるが、そうした認識にも一石を投じることになり得る書である。大戦中の大日本帝国兵士の本当の姿を当時捕虜になった兵士自らが心情を吐露した記録が現存していることに率直に驚いた。それは論評などではなく、「現場の声」そのものである。その記録が現代に生きる我々の参考にすべき内容のものであることは十分に肯定されてしかるべきであろう。

・捕虜について

 まず「捕虜」という考え方だが、実は当時日本は捕虜という考え方を認めておらず、公式捕虜数は把握されていない。何しろ捕虜になるくらいなら「自殺しろ」か「玉砕しろ」の世界である。もしおめおめと捕虜になった後に生きて日本に戻ろうものなら、間違いなく死刑(銃殺か強制的自害)が待っていたのである。まして捕虜を出した家族は非国民・不名誉のレッテルを貼られ死以上の苦しみを味わう可能性もあるから、実際に戦地で捕虜になっても日本に帰ろうという考え方を持った兵士はいなかった。それにしても極端に戦況が悪くなって補給が本土から全く途絶えても投降することが許されないという日本兵の生き地獄度合いはいかばかりであったろうか。日本兵として戦っても戦況は著しく劣悪な生き地獄、捕虜にもなれない地獄、原住民を不当に使役し恨まれる地獄、戦争とは一体何を生み出そうとするのか。
 ちなみに、国際赤十字が把握している日本兵捕虜数は20万8千人で大戦に関わった国としては著しく少ない数である。それは投降を禁じられていたからであろう。命を棄てざるを得なかった兵士達に同情の念を禁じえない。今になって戦地に散った英霊に感謝すべきなどと言っているが、当時は大日本帝国国家が兵士を見殺しにするシステムを作っていた。どうやっても生きてはいられない仕組みである。どれほど前線の兵士が我が国のありように憤慨したか。それが今になって手の平を返したように国家として「感謝すべき」という論調には強い違和感が残る。ともあれ、個性否定の時代に彼らは劣悪な条件の戦争最前線で何を思い感じていたのだろうか。

・日本と米国の決定的違いとは

 さて、当時日本は英語を敵国語として教育から排除したのに対し、アメリカは積極的に日本語を学ぶ仕組みを考えた。孫子曰く「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」とあるが、日本は英語を使ったり学んだりすることを禁じた。「米国人はヤンキーと言って目を合わせると喰われる」などと国民にくだらぬことを吹き込んだ。ベースボールは英語だから禁止。英語はなるべく日本語に変換させた。あまりにも愚かでくだらなく悠長な国民撫育である。終戦直前に日本に竹やり部隊が登場するのも何も血迷った判断ではなかったろう。相手がどのような者なのか知らないのであるから本気で竹やりで戦えると思っていたのかもしれない。恐ろしいほどの無知である。一方で米国は日系人2世などを使いながら積極的に日本語習得に力を入れた。やがてこれが東南アジア戦線で大きく米軍に利するようになったのだ。そう、それが「捕虜からの尋問」に極めて有効だったのだ。加えて日本兵の戦死者から重要機密文書などを手に入れて、一斉に翻訳にかけた。それを集めて編集したものをワシントンに送った。マッカーサーはもちろんこれを重視し積極利用した。こうして日本側の作戦がほぼ筒抜けになってしまっていたのだから戦いに勝てるわけがない。物量戦だけではなく情報戦でも完全に負けていたのである。ガダルカナル島の戦いなども今日様々に分析されているが、ようは「日本軍の戦術は事前に米国の手の内にあった」のである。日本兵捕虜が機密を話したり、兵士が所持していた指令書などがどんどん翻訳されていた。それがすべてと言ってよいほどに勝敗を決定付けたのである。繰り返すが孫子の指摘は真に正鵠を射ている。「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」である。なお、山本五十六連合艦隊司令長官が視察飛行中に米軍に打ち落とされ落命するが、これも事前に情報が筒抜けであったことが捕虜証言、兵士の残留文書から判明しており、待ち伏せしていた米軍の罠にまんまとかかってしまったというのが真相らしい。

・日本の情報統制は?

 では日本は情報漏洩に対してどのような判断機軸を持っていたのか。日本は兵士の家族や恋人に対する電報・書簡による国内への情報統制はかなり厳しかったが、捕虜からの情報漏洩は全く想定外だった。まさか神聖な日本兵が鬼畜米英の捕虜になるなど想定外であったろうし、そこで機密を話すなど全く思いも寄らぬこと。だが前線の日本兵は疲れきっていたし、国家への忠誠よりも自己の命の保全を優先した。当たり前のことである。米国は日本の戦力削減のために捕虜を獲得することを構想。投降ビラ等を空からまくことで前線の日本兵の戦意喪失を促し、降伏後は十分な食料と衣料と治療を施した。米国の日本兵捕虜への待遇が予想に反して良い事を知ると、捕虜達は次々に日本内部のことを語りだしたのである。ここで米国が日本語を教育してきた戦略が功を奏すことになる。結果、軍事機密はどんどん流出し、それを元に米国は対日戦の戦術を練るのである。日本軍の夜襲、朝駆けなどはお見通し、奇襲や奇抜な作戦も全くの無駄ということになった。
 米軍は次々と捕虜から情報を聞き出し、死体から相当数の文書を抜き取り即座に翻訳にかけた。すぐでなければ戦術的価値を失うからである。米軍は捕虜の証言と文書内容の整合性を判断し戦術を練った。翻訳部隊(ATIS=南西太平洋連合軍翻訳尋問部隊)を戦地の最前線まで連れて来ており、米兵は戦闘の最前線で日本語の翻訳を粛々と進めた。日本軍の作戦内容が米軍に筒抜けであった。日本が勝てる道理などなかろう。
 日本人は戦地においても日記をつけるが、米兵にそのような習慣はない。日記には戦術が記されていたり、命令が記されていたり、上官への悪口、現状への不満など、国民感情がリアルに読み取れる価値ある文書であった。偽造文書のような戦略は日本はとっておらず、事実上情報は筒抜けであった。大日本帝国は日本語は難解語であると自認している故に、敵国は解読できないと安易な判断をしたことも情報漏洩対策が甘くなった理由である。このように総じて日本は安直な精神支柱に寄りかかる傾向があった。「〜なはずがない」、「天皇の軍隊は不敗」、「神風は必ず吹く」、「神国日本の繁栄疑いなし」などとおよそ戦争を遂行して勝利を得ようとする者の発想とは思えない。無知を通り越して幼稚ですらある。

・戦地での日本兵

 日本軍の上級将校の逃亡の多さには米兵もあきれていた。兵卒には威張り散らし嫌われぬいていた将校も多い。そうした上級将校が戦局不利と見ると脱走、敵前逃亡をやってのける。そうした態度に一般兵が憤慨していたことを捕虜が口々に語っている。ガダルカナルにおける戦いも百武中将や丸山中将が逃亡した。先述したが、捕虜は米兵による扱いを極度に恐れていたが、待遇の良さに驚き機密を積極的に機密を話すようになる。連合国軍の勝利のために果敢に協力すると訴える者も出た。
 また、従軍慰安婦のところに入り浸りの連隊長(丸山中将など)に怒り、軍医らの特定の人間だけが十分な食料やタバコを得ていることなどを捕虜が証言している。これでは兵士の士気など上がるはずがない。食糧不足により兵士の脱走、自殺が相次いでいることも証言。米兵はこうした証言により日本軍のモラル低下と士気凋落を分析している。従軍慰安婦は日本の周旋業者が朝鮮本土で行った日本兵の負傷者の看護などの「慰安役務」募集に騙されて集められたり、工場の女工募集広告で応募してきたのを慰安婦にしたりしていた。米軍はその慰安婦が寝床で将校から軍関係の情報を漏れ聞いていないかを調査しているが、そこでは将兵ともに酒に酔っても漏洩はなかったとされる。それにしても米軍はしたたかな戦略を採っている。情報収集にかけるエネルギーが日本のそれとは大違いだ。
 ちなみに日本論として有名な『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトは日系人や日本人捕虜の面接、尋問記録などを参考に書いたのだという。「罪ではなく恥の文化」と判断したのもこうした捕虜の態度や恐れ(非国民、不名誉、村八分)を分析したものであろう。彼女自身は日本に来てもいないのにどうやって日本人を論じるのだという批判があるが、極限状態まで追い込まれていた戦地での日本兵の尋問内容にはホンネとタテマエがはっきりと映ったことであろう。ある意味で日本兵捕虜達は最高の分析対象でもあったはずだ。

・母への手紙と恋文と

 戦地に赴き、玉砕覚悟の作戦が明日にも決行されるという日に書かれた一般兵の手紙が残っており本書で紹介されている。悲しみを抜きに目を通すことなどできたものではない。著者も余計な分析を加えてはいない。ただ紹介されているのみである。人間はあくまで人間である。一読あらんことを。

・日本人の精神とは
 
 米軍は日本兵捕虜達への尋問等を総合判断し、日本人の天皇観は天皇個人への崇拝や神道など天皇制イデオロギーによる強固なものではなく、長い間の教育や軍隊生活によって強制された硬直的なものに過ぎないと断定した。そうした分析は今日の我が国を考える時、当たらずとも遠からずであったと評価できるものではないだろうか。GHQは戦後の日本の占領政策に大いに捕虜達から学んだ教訓を活かした。日本人は何に反発し、何を恐れ、何を護ろうとするのか。天皇の戦争責任に触れず、象徴天皇制を敷いたことはまさにその成果であった。日本兵捕虜は天皇についての肯定も否定も極度に嫌ったという。この体質は各捕虜について違いはなく、等しく同様の反応が見えたようだ。米軍はこうした日本人の気質を的確に捉えていた。あれほど戦時中は無謀な戦術を採って玉砕攻撃をかけてきた日本国の占領が驚くほどスムーズに完了したのは、まさに「日本人の気質」を日本兵捕虜から学んだことに起因している。現在、東京裁判が国際法上正当性を欠くという論議が再燃しているが、実際のところ連合国は国際法上のリーガルな判断による裁きよりも民族気質・民族性を重視した裁判を行ったのである。東條以下A級戦犯と呼ばれる人間を死刑にしたのも、国内反発はさほどでないということを判断したからだ。戦時中、日本兵捕虜は天皇を全く恨んでおらず、大本営や軍部、政府に対する不満をぶちまけていた。この不満は兵士だけではなく国民全体にスプレッドされたものであるとGHQは判断したのではなかろうか。ならば、東條以下政府要人を裁いても国民感情を害することはないと判断したはずだ。最高指導者である天皇を戦犯指定しなかった時点で元々国際法上の正当性など担保できなかったに違いない。故に連合国側、特に米国は日本の戦後安定の目的の為にあのようにせざるを得ない「行事」として東京裁判を演じたとは言えまいか。そう考えるとあの裁判が正当か否かということは今日それほどの意味を持つとは思えなくなる。米国のしたたかな戦略に完全に日本国は敗北したのだ。大切なのはこれからである。大戦を肯定しても否定しても「過去に囚われている間」は我が国の未来をより良くする動きにはなるまい。我々現代人は「過去を活かさねば」ならないのである。

・同じ轍は踏まず平和国家の道を

 大日本帝国は家族と恥とを人質にとって兵士を前線に送っていたに等しい。捕虜になるなら死を選べ。捕虜になれば母国の家族の不名誉だ。非国民となじられる。捕虜になってから帰還すれば死刑が待っている。前に進めず、後に退けず、降伏投降は許されず。鬼畜米英と吹き込まれ、目を合わせたら喰われるなどと脅す。
 つまり国家として個々兵の精神を極限まで発揚し、恥を煽り、火事場の馬鹿力を最大限に出させようというものに近い戦略を採っていたと考えられる。それは国家同士の総力戦(物量戦、思想戦、経済戦、国民性)といったマクロ的戦略をも上回る位置を占めていたと言われて仕方がない。米国は総力戦でぶつかってきているのに対して、日本は一般兵の奮戦を促してばかりいる。とても戦術とは呼べそうもない本土での竹やり部隊育成もまさにそれであろう。自国のことをこう言うのは一抹の寂しさがないではないが、太平洋戦争は勝てる道理などなかったのである。
 今日、一般兵士達の前線での苦しみや悲しみを考える時、二度と戦争をしてはならぬと決意を新たにするものだ。一般日本兵のように個々人の精神性を高く発揚・利用された民族であればあるほど、戦争は心身共に辛く厳しくむごいものとなる。日本兵捕虜はまさに現代に生きる我々にそれを教えてくれている。忠君愛国の美名のもとに散らざるを得なかった若かりし兵士に心からの哀悼をささげ、国家としての自責の念を未来永劫忘れてはなるまい。可能性多き青年を大量に日本は失った。これほどの国家としての損失があろうか。私は兵士達には感謝ではなく、ただただ強い悲しみの共有、つまり同情の念が沸き起こってくる。戦争は幾重にも張り巡らされたあらゆる不幸・不安・不足・分断のシステムである。我が国の尊き青年はそのシステムに殉じざるを得なかった。抗うすべも持たなかったであろう。何という人生か。何の為に生まれてきたのか。人類はこんなものをもたらすために進化・発展してきたのか。そう思う時に、はかなく散っていった兵士達に向けて必要なのは「感謝」よりも「不戦の誓い」と「平和・安寧の国家建設」、そして「国家による世界平和への寄与への行動」であると強く確信するのである。
| 本ココ! | 18:15 | comments(0) | trackbacks(1)
男は女のどこを見るべきか(岩月謙司) 
評価:
岩月 謙司
筑摩書房
¥ 714
(2004-09-07)
 男は女のことがわからず、女は男のことはお見通し。随分昔から男女のすれ違いは歌にもなり、詩にもなり、悲劇にもなっている。男と女の関係というのはいつになっても奥ゆかしいものだろう。

 さて、本書の『男は女のどこを見るべきか』というタイトルは男性諸君にとって興味をくすぐるものであろう。その内容はと言えばほぼ著者の主観の羅列である。客観的な尺度によって女性の特徴を捉えているとは言いがたいが(いわゆる学問追求とは異なるスタンス)、著者の考えは参考に値する部分もあるとは感じられた。男性にどれくらいの同意を得られるかどうかが本書の評価に繋がるだろう。以下、かいつまんで本書の興味深かった視点をいくつか紹介する。

 ・女性は愛されることに命をかけている。その時は社会性は二の次になる。
 ・女性は愛されれば天使に、愛されなければ鬼になる。
 ・女性の感性は鋭く、男の考えや浮気をきちんと見通している。
 ・女性は無意識に男性のしぐさや異常をチェックしており、自己保全を図る。
 ・男性は愛された女性を探せ。その女性は自分が裏切らない限り最高の味方となる。
 ・女性は感情に対して素直である。男はそこが理解できない。
 ・愛されている女性を見分けるポイントは「ありがとう。ごめんなさい」を美しく言えるかどうかである。

 その他、たくさんの視点が提示されているがそれは本書をお読み頂きたい。出版時には随分と賛同と批判が渦巻いたようだ。特に女性からの意見は真っ二つであったとも言われている。男性の観点から女性の無意識の行動を読み解こうとしているわけであるから、賛否両論やむを得ずと言った所か。ただ、女性にとっては男性の鋭い人には「こう見られているかもしれない」という参考程度には役立つかもしれない。総じて俗っぽい内容だが、思わず頷く部分もあり、読み物としてはそこそこ面白い部類に入るように思う。

 蛇足だが著者は治療と称して女性に対する性的接触を行った疑いで裁判沙汰になっている(判決は未確定)。
| 本ココ! | 10:58 | comments(0) | trackbacks(0)
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackbacks
mobile
qrcode
links
profile