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クライシス コア -ファイナルファンタジーVII- 攻略というか感想というか評価 
評価:
---
スクウェア・エニックス
¥ 5,042
(2007-09-13)
Amazonランキング: 2位
Amazonおすすめ度:
久々にスクエアの本気をみました
確かに
これは
 私自身、ゲームを買うのが本当に久しぶりで、PSPに関してはソフト一本を残して全て手放した。残っているのはパズルゲームの「カズオ」くらいなもので、ハードとしてはニンテンドーDSもPS3も持っていない。今作は久々に期待して買ったタイトルなのだ。以前、ここでファイナルファンタジー7 アドベントチルドレンの記事を書いたが、クライシスコアはFFシリーズでも際立った特色を放っている「7」の最新作となる。今年はFF7が世に出てから10周年なのだそうだ。もうあれが10年も前のことなのである。あの当時、シナリオ上でエアリスが戦線離脱して、私自身が三日間ほど虚脱放心状態になったのがもう10年も前のことになるのかと思い返したりもする。

・FF7の雰囲気がムンムン

 思い出す。あの時の、あの感じ。ミッドガルのあの感じ。FF7をプレイしたことがある人なら、こういうチープな表現でも十分に私の言っている事が伝わると信じたい。PSPの電源を入れ、本体を握ったまましばしの感動があった。アドベントチルドレンの設定はミッドガル崩壊後のため、あの雰囲気はほとんど伝わってこないが、クライシスコアはFF7本作よりも前の話である。ミッドガルはバリバリ稼動している。タークスも元気、ソルジャーもたくさんいたのだなと感想を抱く。マテリアの概念や魔洸(ライフストリーム)、古代種、マッドサイエンティストによる生物研究、そしてジェノバ…。これらのキーワードがこのゲームの世界観を力強く支えている。

・ザックスが主人公

 今作はFF7ではほとんど出番がなかったザックスが主人公である。プレイヤーはザックスを操ってフィールドを駆ける。キャラのイメージがどうもアドベントチルドレンのそれとは違う気がするのは私だけはないだろう。ゲームはソルジャークラス2nd(セカンド)からのスタートである。発売前のトレーラーでも確認できたが、ジェネシス、アンジール(それぞれ本作初登場)、セフィロスの3人のソルジャークラス1st(ファースト)達と、神羅カンパニーの世界戦略の思惑との交錯、アバランチをはじめとする反神羅組織などの胎動、遥か昔の他惑星からの飛来物(侵略者?)が隠し持っていた真の目的。それらが複雑なタペストリーを織り成しながら物語は進んでいく。ザックスは知ってはならないことを知ったか、あるいは感づいたのか、それ故にFF7であのような結末を迎えたのだろうか。今、我々はFF7が残していた謎を解きに、あの大事件の過去に旅立つ。

・音楽のクオリティに下を巻く

 今や音楽抜きにFFが語れないほど、その存在感が強いことは誰もが頷くところだろう。植松氏の手がけたFF7のあの感じ(あえてこう言おう)は更にクオリティを増して10年後のプレイヤーに迫ってくる。その場面の音楽が聴きたくてプレイの手を止めるということがゲームの世界にはあるのだということをまざまざと知る。このソフトにサウンドプレイヤーがあるのかどうかわからないが、あればこの上なく嬉しく思う。ファイナルファンタジーはそれ自体が一つの音楽ジャンルとして確立されたものと言えるかもしれない。YouTubeなんかを見ると、一般人がFFの音楽をピアノで弾いたり、ギターアレンジして演奏している映像が大量にアップされている。著作権に関わるのかどうなのか微妙なラインであろうが、そのプレイクオリティ自体には本当に驚かされるし、何よりそれほどFFの音楽は愛されているということであろう。今作もまたゲーム全編を通して名曲と呼ばれるものが登場するであろうか。それも一つの期待としてゲームに取り組めるのは楽しみな限りである。

・ゲームシステム、プレイ感について

 今作はコマンド入力形式のRPGとは少し趣きが違う。コーエーのアクションゲーム「真・三国無双」シリーズとFFがミックスされたような印象と言えば近いだろうか。ザックス自体を十字キー(あるいはアナログパッド)で操作して、敵ターゲットを直接攻撃する形を採っている。もちろん剣も魔法も特技も選択して発動可能だ。昔、ゲームボーイで「聖剣伝説」というゲームがあったが、あれを高度にアレンジして多様性を持たせたものと考えるとそう外れてはいまい。ただ、移動フェーズと戦闘フェーズは切り替わるタイプ(つまりシームレスでない)なので「戦闘シーンだけがアクション」と思っていれば良いだろう。
 戦闘になると敵は複数で襲ってくるし、もちろん待っていてもくれない。ボヤボヤしているとあっという間に袋たたきにあってしまう。攻撃も回復もアイテム補助も全てザックス一人で行わねばならない分、瞬間瞬間の判断が求められるので、強敵に会った時などは近づいて攻撃、あるいは補助アイテム使用、敵から離れて回復、敵攻撃が激しい場合は回避または防御、タイミングを計り接近して必殺技、距離を置いて魔法攻撃発動、想定外の状況変化によるフレキシブルな行動選択など、全く忙しいゲームになる。HPやMP等のステータスに目を行かせるのは当然として、現状の行動選択の確認(攻撃、魔法、アイテム、特技などは同時には使えないため、どれかを常に選択しなくてはならない)、敵位置・行動の確認、戦闘情報の確認(敵発動の技や状況変化が表示される)など、頭が混乱してしまうほどの情報量を処理する必要がある。序盤こそ、単純に攻撃を連打していれば通用するような易しい戦闘があるが、中後半になってくるとそのような戦術なしの戦いでは歯が立たなくなる。このゲームを楽しめるかどうかは、まず戦闘の仕組みをよく理解して慣れる事が大切だ。いつでも戦闘方法を確認できるチュートリアルがあり、実戦に慣れるための「ミッション」と呼ばれる本編とは直接関係のない訓練ステージも用意されているので、そこは面倒くさがらずに取り組む必要があるだろう。ものの2,30分もあれば大まかな戦闘感覚を掴む事が出来るはずである。そうなってからがこのゲームは楽しめるものだと思う。
 ザックスのステータスとしてはHP、MP、APの3種類が用意される。APは特技に関して消費されるものである。戦闘中はこれらステータス表示が意外と小さいので、常にそこを意識していないとあっという間に底をつくことになる。複数の敵の連打など浴びたら、瞬時にHPが削られていく。プレイ時は特に注意が必要だろう。また、今作は「通販」という形でアイテム購入がどこでも可能になっている。戦闘ごとのステータスの目減りがかなり著しいので、アイテムで補うことが避けられない。回復手段が宿屋やセーブポイントに縛られないフリーランスさは、こうした戦闘システムを採用したことに対する配慮であろうか。ゲームバランスが崩れると最初は思ったが、プレイを続けているとこれはこれで良い塩梅なのかもしれないと感じた。その他にも目新しいシステムが用意されており、例えばマテリアに関しては単体マテリア強弱・成長だけではなく、それらを合成して新マテリアを作り出すことが可能になっている。これなどはやりこみ要素として歓迎されそうな仕組みであろう。それからゲーム内で逐次ザックスに対して「メール配信」がなされいつでも読むことができるようになっている。メールの差出人は新羅関係者(上司・社内報など)だったり、仲間だったり、チュートリアルだったりして、ゲームの進行における全体観や雰囲気といったものをプレイヤーに把握させようとする試みがなされている点も興味深い。

・システムやソフトの挙動に関して

 さて、ここからは実際にプレイするに当たって気付いた点などを挙げていきたい。このソフトはPSPのバージョンを3.51以上にすることが必要だ。一般プレイヤーにとっては何のハードルでもないが、PSPに自作ソフトを導入しているような人や、エミュレーターを使う人などはその点を注意しなくてはならないだろう。ソフトはともあれ、エミュレーター自体に違法性があるかどうかは意見の分かれるところでもあり現状では明確な判断がされていないが、ここはそれを詳説するところではないので注意書きに止めておく。
 とにかく今作をプレイして一番気になるのは、ゲームの読み込み頻度が少なくないことと、ロード時間の長さに関してである。光学系メディアであるUMDを採用したPSPの宿命的な課題なのだが、やはりゲームを読み込むロードに時間がかかる。ロードが待てないほど長いわけでは決してないし、それに関しては相当開発側も努力をしたのだろうが、やはり気になるといえば気になる。快適にスイスイ進むかと問われれば、「時々ひっかかる感じ」という表現で答えなくてはならない。特にフィールドの移動時、マップが切り替わる度に読み込み作業が必要な点は気にかかった。こうした評価が厳しすぎるという向きもあろうが、率直な感想として述べておきたい。

・総括として

 まだ私自身もゲーム進行中であり、最終的な感想を書ける段階でない。ただ、この記事を書いている今も「こんなことをしてないで、早くプレイしたい!」という気持ちを抑えられないでいるのは確かだ。本当の楽しさが出てくるのはこれからだと思っている。FF7本作をプレイした人であれば、つまらないということはないだろう。一つの長編ミステリアス小説を読んでいるような気分だ。スクエア・エニックスらしく、美麗な映像はもちろん今作でも健在で、PSで登場したFF7の映像クオリティを優に超えている。PSPでどこでもプレイできることも嬉しい要素の一つ。
 ただ、前述したように今作を楽しむためには戦闘システムに慣れることが必要である。それには少しばかりの訓練が避けられない。私も久々のゲームとあって感覚が追いつかなかったが、今はどんな戦略を立てて進めていくか良い意味で悩ましい。心地よい脳の疲労と、わくわくさせてくれる躍動感が同居している状況だ。今作のようにストーリーと音楽とゲーム性とをそれぞれ十分に楽しめる価値は決して低くはないだろう。ましてあのFF7に接続するソフトである。全方向で楽しんでいきたいと思っている。現状の総括としてはこのくらいだろうか。

・ゲームクリア後の最終総括(9/18追記)

 購入後、一気にクリアまで走ってきてしまった。開発には数年の日数と、数百人に及ばんとするスタッフと、膨大な開発費が必要なのに、プレイヤーはそれを数千円と数日足らずで一気に消化してしまう。そして口々に評価や感想を述べるものだ。今はネット上でも相当にホットな話題として賛美・悪口が駆け巡っている時期である。私も自分の立場を明確にする必要があろう。ここで私は今作を賛美する側に回ることになる。

・ゲームとして

 ストーリーは分岐形式ではなく、ほぼ一直線で進行する。FF7の本編に矛盾をきたさぬように作らねばならない点で、そこはやむを得ないものと思われる。今作はマップを自由に動き回り、街中を駆け巡り、世界周遊をするといった楽しみ方はできない。イベントに沿ったフィールド以外に行動範囲がないのである。これはゲームの自由度の観点からすると奥深さを提供しにくい仕組みでもあるし、「一度戻って宝探し」などという行動を採ったり出来ないのは残念であった。一度行った所は基本的にもう行くことは出来ない。残念である。
 今作のシステムとしてレベルアップやマテリア強化が基本的に運まかせになる点が批判されているようだが、RPGにはそれくらいの不確定要素がこめられている方が楽しみを演出できるように私には思える。予めレベルが上がる予告が経験値で示されるやり方は、ある意味で楽しみの欠如でもあるまいか。今作を通してその点で不満に思ったことはない。マテリア強化に関しては「合成」という仕組みが新たに作られたので、その点での楽しみを追求することが可能である。中毒的に取り組むプレイヤーも出ることだろう。
 その他、不満点としてよく目にする意見として冗長なムービーのスキップ機能が実装されていないことが挙げられている。いくら美麗なグラフィックでも、一度か二度見ればお腹一杯である。特に戦闘時に発動するリミット技でのムービーがくどかった。戦闘でのムービーの必要性は主従で言えば「従」であろう。ムービーの存在自体は否定するものではないが、一度見たらスキップすることは可能にした方が良かったと思われる。これがゲームのテンポを鈍らせているようにも感じた。
 それから、フィールド操作でのカメラワークの精度にも不満が上がっていた。こちらは実際にプレイに支障が出るほどのものとは感じなかったが、幾分の微調整がなされていれば良かったとは思う。とはいえ、慣れてしまえばどうというほどの問題点ではない。
 今作の評価の中で特に割れそうなのは数多い「ミッション」についての考え方だろう。貴重なアイテムやマテリアのほとんどが、ゲーム本編とは直接関係のないミッションで入手しなくてはならないというのはいかがなものか。ミッションそれ自体も狭いフィールドの中で宝箱を探させて、ボスを倒すという単純作業の繰り返しで、段々義務感すら芽生えてくるのを否定できない。「させられているゲーム」は苦痛を伴うものだ。このミッションをもう少し押さえて、ストーリー本編を強化することに容量を回せなかったものか首を捻ってしまう。
 戦闘の仕組みに関しては特に不満はなかったが、行動を選択する際にL・Rボタンで選びに行かなければならなかったのは少々面倒であった。苛烈な戦いになると、選択している間に敵の攻撃を受けてしまう。ショートカットか何かが用意されていれば良かったとは思うが、ボタンの数が限られたハードウェアでは現実的ではない要求であろうか。以上、ゲームをプレイするという観点で思うところを挙げてみた。トータルとしては楽しめるシステムであると思う。良作であるからこそ、気になる点も際立つのである。これほどのゲームがPSPで楽しめることは冷静に考えてみれば凄いことである。FF7の名を冠した挑戦的タイトルであることは間違いない。

 余談だがプレイ当初、ジェネシスの姿や声があまりにもGacktさんに似ていると思っていたが、実際本人が演じているのだそうだ。(どうりで似すぎていたわけだ)

・FF7が好きなら、迷わず飛び込むべし。但し、悲しみを背負うことになる。

 とにかくハッピーエンドにはなりえない内容のストーリーであることは、FF7経験者なら誰にでもわかることである。ゲーム進行途中でのザックスとエアリスの微笑ましい闊達な関係も、終幕が容易に予想される我々には悲劇の枕としか映らない。まさにこのゲームは「最期の悲劇をこの目で見るためにプレイする」のであり、我々がゲームとして楽しむ部分は悲劇の幕間でしかないのだ。それでも何故我々はその悲劇に向かってこの手を動かしているのか。わかりきった結果だからこそ、それがどのようであったのかが我々にとって重要なのである。
 考えてみるとソルジャークラス1stのザックスが一般神羅兵に殺されるのは解せなかったものだ。ニブルヘイムで英雄セフィロスにすら打ち勝った男が、病人クラウドを抱えているとは言え、何故無残な最期を遂げねばならなかったのか。本編にはそれに一応の答えが用意されている。だがそれは直視に耐えるものではない。かつてあれほど仕えた神羅から鉛玉の嵐が見舞われる。覚悟を決めた一人の英雄が淡く愛した女を思いながら地に倒れていく…。ザックスはクラウドに全てを与え、誇りそのものである巨大な剣を握らせた。置き換える言葉も見つからない思いを表情に託して彼は画面から去っていった。クラウドそのものがザックスの全人生と代位したのである。残された女は何も知らないことが幸せだろうか。今日もピンクの服にあのリボン、そしてあのカゴでお花を売って歩くという。

 それはきっと「エアリスとザックスの誰にも邪魔されない繋がり」を表している。

 彼女が何年も音沙汰のないザックスに書いたというツォンに託した80数通の手紙、誰にも開かれることなくあのメテオの日に失われてしまったのだろう。焦がれた女の寂しげな連絡に「わかった、会いに行く」と彼は電話で約束してくれた。あのニブルヘイムでの会話だった。だが結局、会いに行ったのは数年後の彼女の方であった。思えば我々プレイヤーを泣かせたのは後も先もこのカップルである。ザックスは身を挺して後の英雄クラウドを守り、エアリスは星そのものを護った。その代償は…。

 長いエンディングは神羅に翻弄されたジェネシス、アンジール、セフィロス、ザックス、クラウド、ラザードらの悲哀が彩られており、エアリスが彼を思う気持ち、そして彼がエアリスを思う切なさ、彼自身の奔放さが物語の悲哀と相まって悲劇の度をいや増している。だが最期まで彼は悲観の様相を見せなかった。強く、明るい存在であった。ソルジャークラス1stザックス、友アンジールの言葉の通り誇りと夢を離さなかった。最期に迎えに来たのはきっと彼なのだろう…。


 名画をプレイする感覚。確かにそれがあった。

 今、私は満たされている。
| ゲームココ! | 07:10 | comments(5) | trackbacks(1)
デジタルを哲学する―時代のテンポに翻弄される“私” (黒崎政男) 
 本書はデジタル製品やそれに関わる生活様式が社会で定着し始めている現代において「人間と機械」、「アナログとデジタル」、「人間とロボット」といった二律背反するものを哲学的にどう捉えることができるかという主旨で書かれている。また、デジタルによって破壊された既存の価値観についても論及されており、少々クドいのだが、少し考えれば誰にでもわかる当たり前のことを改めて確認することができる。
 この本が書かれたのが2002年ということもあり新鮮さには欠ける印象がぬぐえないが、「機械はとにかく利便性のあるもので、人類発展に不可欠だ」という概念しか持たない人には読んでもらいたい一書である。人間の人間たる所以を認識できるであろうし、未来のデジタル世界に何が求められるのかを自分なりに思索する機会を与えてくれるとも言えよう。
 具体的内容としては、1997年にチェスの世界チャンピオンが、IBMの造ったチェス専門コンピューター「ディープ・ブルー」に破れた話などはなかなか興味深いものがあった。それは数手先を考える人間と数億パターン先の手を考えるコンピューターとの戦いだったという。ところが、この勝利がすなわちコンピューターによる人間の思考への勝利かといえば、それは全く別物であると著者は考える。帰納的なアプローチで戦略を立てるコンピューターと、演繹かつ帰納かつ直観を駆使して日々の生活を送る人間とは、度し難いほどの違いがあるというわけだ。その辺りのことを、様々な事例や言葉を用いながら示している。細かくは本書を参照されたい。

 人間と機械の住み分けを考えるのは「人間の側」である。現在のところ、どれほど頑張っても機械は人間の領域には入って来れないし、人間世界を侵すことも不可能である。人間が機械や文明の奴隷にならないためにも、確かな定見というものを持つことが求められる。そのために哲学が永久になくなることはあるまい。私はそんなことを考えながら本書のページをめくっていた。
| 本ココ! | 13:44 | comments(0) | trackbacks(0)
IT文明論―いまこそ基本から考える(玉置彰宏 浜田淳司) 
評価:
玉置 彰宏,浜田 淳司
平凡社
¥ 693
(2001-03)
 6年も前のIT論だと、かくも新鮮さを喪失するものかと思ってしまうが、それは著者のせいではない。時代の変遷スピードが加速度を増しているということである。2007年現在では参考にすべき題材はあまりないようだ。ただ、ITを社会学の見地から見直そうとするならば、本書の副題「いまこそ基本から考える」というテーマは役立つこともあろう。
 擁護するわけではないが、本書が見通していた近未来はさほど実像を外してはいなかった。予想外だったのは当時推測した以上の圧倒的なスピードでITインフラの拡張が行われたことであろうか。推論の上に推論を重ねる未来観であったため、幾分かの予測が正しくなかったことも今日確認できる。とは言え、それを指摘したところでどうになるものでもない。
 タイトルは『IT文明論』という地球文明的な大きなスケールでの掲げ方をされていたが、どちらかというと「IT世界というものの捉え方」を上手く表現した本ではなかろうかと思う。普段からITに接している人にとっては「当たり前」のことばかりが書かれており、改めて手に取る必要はないだろう。本書の効用とすれば、「IT」と聞くだけでチンプンカンプンに感じてしまう人が、世界とITとの関わりを一般的角度から把握するための入門書とすることが挙げられようか。
| 本ココ! | 15:58 | comments(0) | trackbacks(0)
朝食抜き!ときどき断食!―免疫力・自然治癒力健康法 (渡辺 正) 
 実に明快な論旨で「朝食抜き」の重要性もとい、絶対性を語っている。ざっくり読んで2時間ほどあれば読了できる内容。ようするにタイトル通りのことが言いたいわけである。私なども誰に言われるわけでなく朝食を抜いてきたが、確かに病気らしい病気もしていないし、入院経験もない。健康そのものと言って良いほどである。知人は私の食事の少なさを深刻に心配し、また嘆くのだが、当の私は快適に生きているのだから問題ないと思っていたところに、私の思いをきちんと論理的に説明してくれる医者がいたのでとてもありがたく思っている。
 著者は全く薬を使わない療法を施して、どこの病院でも治せなかった末期ガン患者や糖尿病、リウマチ、神経痛、アレルギー性の病気など、様々な症例を朝食抜きによる生活改善にて数多く根治してきたという。それは人間が本来持っている「自然治癒力」を大いに引き出すことで成し遂げられたものだ。つまり、本来治療と言うのは自然治癒力を阻害する要因を排除することを言うのである。薬物使用による対症療法的治療では、病の根源を打ち倒すことはできない。やはり人間は健康で生きるのが当たり前に出来ているのだから、勘違いや思い込み、習慣によって形成された悪しき伝統を断ち切る必要があるのだ。

・朝食抜きは不健康は大ウソ

 朝食を取らないと栄養不足で脳が活性化しないために活動効率が落ちるという一般論が流布しているが、著者はそれをとんでもない過ちであるという。彼は、人間の体は夜の睡眠時に次の日の活動のためのエネルギーを生成しているのであって、朝起きた時にはもう「活動ができるようにセッティングされている」と断言している。また、「起きぬけに食事をすると腸の正常な働きを阻害する。腸が正常に働かないと自然治癒力が失われるのである」とも述べている。腸をきれいにしないと万病の元になるというのだ。便秘で苦しんだりして腐敗した便が腸内に残ると、そこから様々な悪性の菌が作られて全身に行き渡る。体調不良や気だるさは、まさに腸の働きが低下した結果であり、排便がスムーズにいっていない証拠でもあるという。
 腸の働きを合理的に考えると朝は排便の時間帯であり、決してモノを詰め込んではいけない時間であると考えられる。内臓が排泄に集中しなくてはいけない時に朝食が入ってくると、それを消化する方にもエネルギーを割かねばならなくなる。これが結果として腸の働き(すなわち便通)を阻害し、過剰に内臓を疲労させ、本来の人間の不純物整理のリズムを狂わせていくことになるという。また、食事は副交感神経を刺激するものであることが知られているが、副交感神経は「休憩」を誘う神経であり、刺激されれば集中力は落ち、眠気が増大する。朝食事をするのは逆に午前中の活動に対して効率が悪化する。一般に朝食抜きにすると仕事効率が落ちると論じられるのは、「朝食に慣れた人間が、突如朝食を抜く実験をさせられている」からであり、長期的に見れば、朝食によって内臓を疲労させた人は病気になりやすく、体調不快を訴えるケースが格段に多いのだそうだ。

・とにかく一度読んで欲しい!健康になりたければ朝飯を抜け!

 本書に書かれていることを説明しようとすると、ひたすら丸写し作業になってしまう。とにもかくにも読んでもらうのが一番だ。ダイエットでも体調改善でも、健康維持でも、朝食抜きは非常に効果が高いと著者は述べている。事実、私も朝食抜きであるが、言われてみれば「なるほど!」と思う事がかなり多く書かれていた。私の実生活で、著者の考えに沿っていなかったのはコーヒーの摂取に関してくらいなものだ。コーヒー(ブラック)は個人的に大好きで一日に何杯も飲むのだが、あまり好ましくないらしい。少々量を抑えようかとは思っている。だが、概ね著者の訴えたいことと私の実生活は差異がないように思えた。過度に栄養が足りないのは問題だが、彼によれば、食事のカロリー計算などはさほどの意味を持たないのだそうだ。
 医学的根拠に関しては可能な限り各パラグラフごとに示されているので、安心して取り組んでもらいたい。とにかく言えることは、事実として回復例が相当多いことと、人間そのものの力を使うこと、薬を全く使用しないということ。読み進めいていくと、いかに我々が無知のまま医学というものに無根拠に寄りかかっているかがよくわかる。そうした盲目を払うためにも、まずは読むことで本書の良さを感じることをおススメしたい。参考URLはこちら

ようするに全ての健康のために「朝メシを抜け!抜け!抜くんだ!」ということだ。
| 本ココ! | 03:14 | comments(4) | trackbacks(1)
死にたくないが、生きたくもない。(小浜逸郎) 
 老いの入り口に立った著者が、この先の人生を展望する内容。一見するとニヒリスティックに思える彼の「老いとの向き合い論」だが、実際は老いの現実をどう受け止めるかという「戸惑い」が整理された内容になっている。結論部は若干自暴であるように感じないわけではないが、多くの老い世代を代理した正統派ロジックとも言えるだろう。

 読者である私はまだ「老いの実感」とは距離がある世代だが、それでも確実に押し寄せてくる加齢現象に思いを致さないわけではない。どうしても先人が先に老いて行く訳だが、そこで一体彼ら(彼女ら)が何を考え、老いや己をどのように感じるのかということは、今を生きる「老いていない人間=青壮年」の指針作りに寄与しないことはないだろう。老いを迎えた人達にとって、自分達が一体どんな立ち位置にいるのかを改めて考えることは非常に面倒なことであろうし、ましてそれを整理して他者に伝えようとする努力などなかなかするようには思えない。その点で作者が「老い」というものを社会的、文化的、性的といった各種カテゴリーから考察したこと、そして様々な要素により織り成されたタペストリーである「人生・老い」の実像をわかりやすい言葉で浮かび上がらせたことは評価に値するであろう。

 66億1千500万人の地球人全てに当てはまる論旨ではないが、少なくとも日本という区切られたエリアでの「老い」の一般的感覚は掴めているように感じる。本書は「老い」について、あれをせよ、これをせよとは言っていない。様々な老いの現実を適度(適当)に受け入れたらどうかという柔らかな提案があるのみである。老いを青春と変わらず(気持ちの上では)アクティブに生きていこうと捉えている人には本書は必要ない。老境に差し掛かった自分の立ち位置を自分で決めがたい人には一つの参考にはなるだろう。
| 本ココ! | 14:13 | comments(0) | trackbacks(0)
お知らせ 
当ブログは携帯からも閲覧できます。http://read.jugem.jp/
| お知らせ | 14:37 | comments(0) | trackbacks(0)
がばいばあちゃんの幸せのトランク(島田洋七) 
 あっという間に読めてしまう本である。私は時間にして2時間かからないくらいで読んだ。島田洋七のいわゆる「自叙伝」という位置づけになるのだろうが、奥さんとの出会いと歩みが何とも言えず爽快である。

 とにかく悲壮感がない本だ。涙涙の苦労話などとは全く縁遠い内容である。実際問題としては芸人の道を選んだ洋七は右往左往しながら己の道を切り開いたに違いないのだが、先の見えぬ彼氏とあっさりと駆け落ちし、当てにもならぬ夢だけを握り締めた洋七に「ただひたすらついてきた」りっちゃん(奥さん)の生き様には舌を巻いてしまう。こういうこともあるのだなと感慨深くなる。りっちゃんに関して、文字にして表現するのは何だか実像から遠ざかってしまいそうで怖いので書かないことにするが、読んだ時に受ける「感覚・感じ・雰囲気」を自分なりに汲み取るのが一番だろう。こういう人がいるのなら本当に会ってみたいと思う。せかせか忙しい現代社会だが、りっちゃんのような人を世の男性は必要としているのかもしれない。

 これは島田洋七のシリーズモノなのだが、貫くものは「ばあちゃん」の凄さである。究極の楽観姿勢と人生を生き抜くたくましさには大いに学ぶところがある。そもそも悲壮感が出ないのはこの「ばあちゃん」のおかげであろう。人間ここまで明るく、良い意味で自分に都合よく、そして最後まで楽観を貫けたら幸せであろう。悪いことが起きても、どうにかして「良いこと」への接続を考えている。いや、そのように難しく捉えているのではなく、ごくごく自然にそう考えるクセがついているのだろう。多分、このばあちゃんにかかると、「川で溺れて大変だった」ということも「洗濯が出来てよかったじゃないか」位にしか捉えていないのではないだろうかと私は思う。

 ともあれ、本の構成としてあえて「楽しい」部分を取り上げているのではあろうが、それでも読む者の「気持ちを軽くしてくれる」内容と言っていい。人間生きていれば何かしら重たいものを背負っている事があるだろうが、疲れた時には心の栄養になるかもしれない。たった2時間程度の読書で、暗鬱な気持ちが少しでも晴れるのなら読んでみるべきではないだろうか。

 もしあなたが変わらない毎日を、つまらない毎日を、気が重い毎日を送っているのなら、この一書を是非ともおススメしたい。人生には上りも下りもあるが、夜がふけても朝が必ず来るように、辛い日々は楽しい日々への道のりだということに、ぐっすり寝た後はしゃきっと起きて活動できるように、苦労は成功のための田植えのようなものだということに、この本を読めばきっと気付けるようになるのではと感じるのである。
| 本ココ! | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0)
最近読んでいる本-プリンストン高等研究所物語-(ジョン・L・カスティ) 
ジョン・L. カスティ
青土社
¥ 2,310
(2004-11)
 今、読んでいる本を紹介しておきたい。レビューは読了後に。

 プリンストン高等研究所はアインシュタインやニールス・ボーア、クルト・ゲーデル、オッペンハイマーらの20世紀を代表する物理学者、科学者、数学者が終結していた研究所として名高い。まさに知の巨城である。本書は史実とフィクションを織り交ぜながら、この研究所の物語を綴っている。数学者が抱えている命題や、哲学とのやむをえない接続、彼らが抱えていた真理探究のための貪欲なまでの懐疑心に桁外れの思考を感じ取ることができる。

 彼らが話題にしていたところを多少なりとも垣間見れるということに大きな喜びを感じる。使われている言葉はもちろん、思考の網もやはり難解な命題ばかりだ。だが、彼らとて我々と同じ人類である。人間が考えうる境地というものを遠巻きにも感得できることは素晴らしいことだ。この本が「物語」であることを差し引いても、非常にエキサイティングに人類を揺さぶってくれる。そんな本である。
| 本ココ! | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0)
集団的自衛権と日本国憲法(浅井基文) 
 『集団的自衛権と日本国憲法』とのタイトルを見ても分かるとおり、現在国会で騒がしい憲法改正の骨子部分に相当する分野について書かれている。第2次世界大戦で周辺国に対する侵略行為を行い敗戦した日本が憲法改正問題に鈍感ではいけない。戦争とは無関係の若者にとってもそうであろう。「平和を維持するための軍事」という人類にとっての究極のパラドックスをどのように捉え、また、発展させていくのか。憲法9条をどこに導いていくのか。各政党は国の屋台骨でもある憲法問題を政治利用・選挙利用するなどして議論のホシを貶めることのないようにしなくてはならない。

 さて、本書の構成だが、自衛権(個別的・集団的)について知識がない人が読んでも、その成立背景や国家にとっての意義が捉えやすいように書かれていると感じた。筆者も力説しているのだが、自衛権という考え方も、国家間の紛争の解決手段として有用な組織と見られている国際連合の成立過程もしっかりと捉えておかないと問題の本質を掴み損ねることになる。
 自衛権の特徴は国家に元々備わる権利と定めているところにある。これは正当防衛の権利を個々の人間が持つようなものと解されており、国家が単独で行える「国際法上正当な」武力発動に他ならないということなのだ。これは大げさに言っているのでもなく、かなりリアルな問題なのだ。
 アメリカで起こった9.11同時多発テロの後、オサマ・ビンラディンの潜伏先と見られていたアフガニスタンが空爆を受けた。実はこの報復はアメリカの個別的自衛権の発動だったのである。あのテロはアフガニスタン政府が国家としてアメリカに仕掛けたものではない。あくまでテロリストが行ったもので、本来アフガニスタンという国家が空爆されるいわれはない。だが、アメリカは自国を守る為に遠く離れた中東に爆撃を加える事が「自衛権」の行使だというのだ。国連事務総長までこれをアメリカの自衛権とすることを容認したという。また、同盟国が危機に陥り自衛権を発動しているところを軍事的に助けることが集団的自衛権の発動である。もし日本に9条の憲法規定がなければ、このアフガン戦争に集団的自衛権を行使して参戦した可能性もないわけではないのである。アメリカにテロが起きて、その報復を中東で行うという自衛権行使に日本が付き合う可能性があるというのは恐ろしいことではあるまいか。

 アメリカの真の狙いは世界戦略の中で日本をどのように活用するかということではないだろうか。その為にはどうしても昔GHQが作った平和憲法が邪魔になってきてしまっているようだ。9条の存在はアジア諸国からも決して低い評価は受けていない。日本の戦前の軍国主義によって国土を荒らされた諸国にとっては、超巨大軍事国家アメリカと同盟している日本が平和憲法を維持してくれることが、アメリカの暴走と独善を少しでも和らげるのを期待しているのではあるまいか。仮に日本が9条を改正し、軍隊を正式に認め、政府首脳が靖国を参拝し、天皇は象徴とはいえ存続し、集団的自衛権の行使も認めるような国家になれば、戦前の軍国主義を想起し相当の懸念を抱くのは当然とも考えられる。日本の9条とはまさにそういう類のものなのである。国民投票法が成立する昨今、憲法改正発議までには3年間のモラトリアムがある。この間に平和憲法が世界にとって有益なものになるためにはどうすればよいのか、真の国際貢献の方途とは何なのか、地球の中でも鋭い地域間対立が懸念されているアジアの安定と平和をどのように築いていくのか。国民的議論がどうしても必要となろう。

 ともあれどのような問題についても言えることだが、この国を覆っている大課題は「無関心」の悪魔である。さほど重要でないことに無関心なのは問題もなかろうが、致命的に危機感を覚えるのは、諸問題の価値を把握することができず、適切に自己の態度を表明することが出来ない無関心層だ。とは言っても彼らもこの国の主権者である。主権者が無関心ということは、国のことなどはどうでも良いという選択をしているのに等しい。無関心をどうにかしなくてはいけない。無関心は結局のところ、戦前のように無謀な戦争を誘発する可能性すら助長しかねない。憲法改正問題も、まずは「無関心」の恐ろしさを打ち倒すことができるかどうかが問われているように思えて仕方ない。政治家はそこにあらゆるエネルギーを投じるべきであろう。「知らないうちに憲法が変わっちゃっていたよ…」などといって後々に後悔するような国民をなんとしてもなくさねばならないのである。
| 本ココ! | 08:49 | comments(0) | trackbacks(0)
ドラゴンボール 完全版第15巻 (鳥山明) 
 国民的漫画を通り越して、今や世界的漫画に成長した『ドラゴンボール』を久々に読んだのでレビューしたい。

 面白い。率直に言って今でも夢中になって読んでしまう面白さだ。今回は完全版14・15巻を読んだのだが、丁度サイヤ人2名(ベジータ・ナッパ)が地球に来襲してピッコロやクリリン達が応戦するという場面である。ドラゴンボールは主人公・孫悟空が子供体型から大人体型に遷り変わる過程で、徐々にストーリーも冒険中心から戦闘中心に主題をシフトさせてきた漫画だ。そしてサイヤ人編は悟空の兄であったラディッツが地球にやってくるあたりで大きく戦闘マンガに切り替わるチャプター(章)でもあった。本作において「戦闘力」という表現が出てくるのもこのラディッツ登場からだ。戦闘力を測るスカウターというアイテムもここで初登場。当時、おもちゃになるほど子供にとってスカウターの人気は大きかったように記憶している。

 さて、14巻は主に地球連合軍(ピッコロ・悟飯・クリリン・天津飯・チャオズ・ヤムチャ)とサイヤ人ナッパの戦いが収録されている。サイヤ人編は初めて地球外の敵との戦いが展開されたのであるが、その戦いのスケールは以前のドラゴンボールのものとは全く違うものであった。ラディッツ登場時の恐るべき強さにも随分と驚いたものだが、後からやって来たベジータ・ナッパの二人のサイヤ人の圧倒的な恐ろしさたるや読者の興奮を誘ってやまないものであったに違いない。
 悟空はラディッツを倒すためにピッコロの必殺技を受け死亡する。死後、悟空は界王様の元で修行を重ねてドラゴンボールにより復活を遂げることになる。余談だが界王様の元にいたバブルス君はかなりいい味を出していたキャラであった。アニメ版でのバブルス君の声優は素晴らしい声を聞かせてくれており、あまりにもハマり役だったように記憶する。悟空の弟子入り試験はダジャレで界王様を笑わすこと。悟空は作中で最初で最後と思われる「ふとんがふっとんだ!」のダジャレで難関をクリア。こうした地球に迫っている深刻な危機感と、現場でのゆるーいやり取りの温度差がドラゴンボールの特徴の一つでもある。結果として読者を疲れさせない構成になっていたのではないかと思うがどうだろか。フリーザ編で登場するギニュー特選隊のファイティングポーズや悟飯・ビーデルが演じたグレートサイヤマンのポーズなど、明らかに緊張感とはかけ離れたものであった。特にギニュー特選隊がフリーザの前でポーズを取った時に彼をあっけにとらせるシーンがあったが、あのような緩い「間」があることを私はかなり楽しんだし、また評価したいとも思う。ドラゴンボールの味はあのような場面にも染み出ているように感じてならない。

 さて、悟空が復活して蛇の道を戻るまでの間に地球連合軍はナッパによりほぼ壊滅状態に追い込まれていた。悟飯をかばいピッコロが死亡。バタバタと準主役級が死んでいくシーンでもある。悟空は全滅直前の皆の前に登場しナッパをひとひねりにする。この登場シーンはナメック星でギニュー特選隊を相手に全滅しかかっていた地球人+ベジータの前に遅れてやってきた悟空が彼らを蹴散らす場面と酷似している。ともあれ、ベジータは使い物にならなくなったナッパを消し去り、悟空とタイマンになる。ベジータはとにかくサイヤ人王子の超エリートという言葉を連発するも、悟空との戦いは互角か押され気味で冷静さを失って激昂する姿が目に付く。実力の尺度を門地や生まれの差で測ろうとする思考はこの後のベジータにもずっとついてまわっており、彼の特徴を表す一面でもある。ちなみにナッパも悟空にやられている時に「名門出のオレが下級戦士などに負けるわけが〜」などと叫んでいた。

 予想外の悟空の強さに追い込まれたベジータが人工の月を作り出し大猿に変身するシーンなどは白眉であった。しかも悟空の大猿のように理性を失うことなく的確に対象を定め攻撃することが可能である点、鍛え抜かれたサイヤ人の姿が見て取れる。野次馬的に現場に来ていたヤジロベーによる一世一代のベジータのシッポ切りが成功し、大猿ベジータは縮小。それでもベジータの優位は動かない。悟空はボロボロの体ではあるが元気玉をクリリンに託し、これが見事にベジータに命中。ほぼ死にかけるところまでベジータを追い詰めるも、とどめを刺すまでに至らない。その後ベジータが作った月を悟飯が見ることにより大猿化しベジータを強襲する。ベジータは気円斬のような技を使いご飯のシッポを切り落とすも、悟飯は大猿の姿のまま無意識にベジータに対してパワーボムを見舞う。全くもって圧巻のシーンの連続である。追い詰められた最強戦士ベジータの危機感がよく伝わってくる秀逸なコマ割であった。傷ついたベジータは乗ってきた宇宙船を呼び、悟空の命乞いもあり、どうにか地球を脱出。ひとまず地球は守られたのである。

 以上、悟空とベジータが激突するシーンは15巻に収められている。14・15巻はナッパ・ベジータとの直接対決が描かれており見所は多い。もうドラゴンボールという作品が終了してからかなりの年月が経つのだが、いまだに最新ゲームが発売されるなど人気に陰りを見せていない。ドラゴンボール旋風は一体いつまで続くのだろうか。凄まじい作品である。
| 本ココ! | 08:11 | comments(1) | trackbacks(1)
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