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疾走する精神(茂木健一郎) 
評価:
茂木 健一郎
中央公論新社
¥ 735
(2009-05)
Amazonランキング: 11615位
Amazonおすすめ度:
茂木健一郎という多様性の宝庫

 脳科学者・茂木健一郎氏のエッセイ集である。小気味良いテンポで筆を走らせているように見える中で、人間が抱えるアポリア(難問)に挑戦し続ける姿勢が窺える。20に小分けされたテーマを束ねて本書は構成されており、どのテーマも短文でありながら、読者に命題のホシを豊かに掴ませてくれる。
 私は彼のことを尊敬している。何故、尊敬するのか。それを彼の魅力について考えてみることで説明してみたい。私が考える茂木氏の魅力は、彼が気鋭の脳科学者であることとか、TV等のメディアに出演して他者を唸らせるような言説・問題解釈を展開することなどとは関係がない。何しろTVを持っていない私は彼を電波の中で捕捉することはまずないからだ。

 物事を詳細に考える立場、すなわち学問を扱う立場になると、「言葉」の使用に関して多少なりとも慎重になるというか、神経質になる部分があるものだ。それは言語機能の限界を強く感ずるからである。誰であれ己の意図を正確に表現しきるほどの言語は持ち得ない。脳がはじき出す感覚(別言すれば心といってよい)の大きさに人間言語が到底追いつかないからである。それなのに学問が何かの見解を表出しようとすれば必ず言語を用いねばならない。現在のところはそれしか手段がないからだ。押井守監督の『イノセンス』という作品があるが、あれは脳と脳を直結して情報共有を行うシステムを持つ世界を描いていたように記憶する。仮に作中にあるようなことが可能ならば認識情報を言語に変換する必要はなく、すなわち対象の分析における必然的捨象が起こらないことになり、いちいち事物の説明に言語は必要なくなるかもしれない。だが、少なくとも現在はそのような世界になっていない。やはり言語に頼らざるを得ないのである。学問は精緻であるべきだという暗黙前提があるが、その唯一の表現手段である言語が常に不完全性を伴うものであるとは何たるアイロニー(皮肉)であろうか。
 学問についていえば、世にある数多のモノ・コトの究極的本質を追うとなると、あまりにも解けない問題が多すぎる。時に愕然とするほどの混沌に人間は投げ出されることになる。現代は学問のカテゴリーも細切れ状態になっていて、それらを追求する専門家は確かに存在するのだが、残念なことに人間が「本当に知りたいこと」は細切れのそれではなく、ある分析のために捨象されざるを得なかった事象を含めた「全体的な何か」なのだ。それを他者に伝達するために言語という手段を用いざるを得ない人間が生活の上で、研究の上で、自己に内観されたある種の認識をありのままに提示しようとすることの難しさを私は少なくとも知っているつもりだ。その意味において、茂木氏があるテーマについて確信的に、または大胆にと言ってもよいが、現段階における学問の到達点を駆使して自説を縦横に展開する様は実に痛快で面白い。また、彼が脳科学を専門領域とするのみならず、理論構築のために援用する知識が多彩な分野を横断的に貫いている点も積極的に評価したいと思うのだ。何故なら人間の生はそもそも「分野」の複合によって成り立っているものではなく、意識することなく全体を行使しているからだ。これは人間を語ろうとするならば限定的な分野からの解釈に固執してはならないということを意味してもいる。

 形而上的哲学の課題を離れれば、どのような人間であれ今を生きていることはあらゆる思考の前提である。人は日々、時間という名の膨大な量の経験を浴びるように経て、無数の選択をしながら生きている。その膨大な量の経験というものが人間に与える微量な影響力まで分析し切ることはほとんど出来得ないであろう。また、生きるということは「ある特定分野」でそうなのではなく、当人とその環境の全体を使う営みのことだ。分野というものはそもそも「人間の都合」の産物である。仮に学問がそうした「分野」の規定を予め必要とするものならば、それはどこまで行っても「人間の都合の産物」に成り果てる蓋然性がありはしないか。我々が日常生活を送る途上で得る感覚や直観は、とてつもなく全体であり、とてつもなく奥深いものなのである。そう考えると学問も最終的には「分野」で収束するのみならず、「全体」を志向するものへと展開していかなくてはならぬものと私は信ずる。
 その点、茂木氏はよく自説の中で「自分が生きてきた経験・感覚」を述べ、それらを踏まえながら最新科学の視点での再解釈を試みる。それは格別に学者でない我々一般人でも十分に感じる平易な感覚を提供しつつ、その「当たり前の感覚」がどれほど複雑なメカニズムによって成立しているかを論理的(あまり使いたくない語であるが)に説明してみせるスタンスである。学者の仕事はまさにそこであるべきだと思う。現状における学問的成果を縦横無尽に投入しつつ、流れるような華麗さを伴って事象を解説し、またその内容に関しての思考に一定の確信を持っていることが見る者の目、聞く者の耳に生命の躍動(エラン・ヴィタール)を与えるものであると言える。機能的不完全さを持つ言語を堂々と使役して恐れのないように見える彼の姿は実に眩しい。そしてそれが我々の実態生活と遊離することがないのは、彼の専攻が人間中枢を裁量する脳科学であることに由来するのであろうか。

 あまりにも書評の枕が長くなりすぎた。どこかの哲人の言葉だったか、「そんなに分かりやすくなければ、もっと分かりやすかったのに」との指摘が胸に去来する。

 本書には現在の脳科学でも「意識」が何に由来するのかは突き止められていないと書かれていた。だが、不思議なことに人間はその構成要素を突き止めていないにも関わらず、それに「意識」という名を与えて、その領域を捕捉しているのである。冒頭から「言語は不完全である」と連呼してきたわけであるが、この場合は言語機能の大きさに嘆息するばかりだ。モノやコトや感覚といったものにまで、言語は名を与えることができる。そしてその領域を同じ語を使う者同士で共有することができる。言語は曖昧さすら大胆に許容してその全体を投影させることができるツールである。人間が高度に文明を築き上げてきたのは、この「言語」によるところが大きいといわれるのも首肯できるところだろう。
 まとまりのない内容になってしまったが、茂木氏には個人的な要望もある。できれば、人間が元来持っていたであろうプリミティブな力に関する考察もして欲しい。私は今ではほとんど失われて、迷信に近いような存在になってしまった「テレパシー」に興味がある。言語がない時代の情報交換の手法だったのだろうか。あるいは自然や獣を相手に危険を避けるための信号のようなものだったのか。現在もその名残が「虫の知らせ」という多大な事例を持つ現象に営みを残しているように思うのだ。イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーによると、新しい技術が台頭すると古いそれは淘汰されるが、その新技術が以前のものを完全に代替することはなく、むしろ培ってきた能力の喪失を余儀なくされるトレードオフの関係にあるというような説を述べている。これは人間が技術革新を経る度に本来持っていたスキルを喪失させてきた可能性を指している。テレパシーで言えば、より高度に事象内容を伝達する言語コミュニケーションが発達した故に、テレパシーのような単純能力は退化を余儀なくされたと仮説してみたわけだ。「虫の知らせ」を分析してみれば、それは言語のような濃密な内容を持つものではなく、むしろ「知らせる」という機能に特化しているように見えなくもない。つまりプリミティブなのだ。
 私は人類はそうした能力を持っていた根拠が、いまだ現代人の脳内にも奥深く残されているのではないかと考えている。時にそのような能力を持つ少数の人間がクローズアップされることがある。TVや雑誌での紹介、あるいはアカデミズムの検証にも耐え得るような能力を持つ者がいたように記憶する。人類のプリミティブな能力を現在も引き出すことができる、すなわち、能力を脳内に未だに残した人間がいるということだ。また、通常の人間でも好悪の感情を即断したり、互いを惹きつける縁を創造したり、何かを見通す直観であったり、「ピンときた」などという非論理的な判断基準を持ち出したりすることは頻繁に行われており、実は「喪失してきた能力」がそのような私たちの脳の不可解さを構成する要素でもある可能性を素人なりに想像しているのである。

 無為に長い文となったきらいがあるが、茂木氏には是非とも、こうした角度からの研究も進めていってもらいたいと個人的に願うものである。会って直接お話する機会があれば手っ取り早いのだけれども…(笑)

 ところで、今回紹介した本(紹介するはずだった本)だが間違いなく良書である。一冊、家に置いて損はない。人間個人のパーソナルな視点のみならず、社会を構成する人間という角度からも読む者の概念を押し広げてくれる内容を備えていると言える。是非とも手にとって見て欲しい。
| 本ココ! | 08:18 | comments(1) | trackbacks(0)
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ち○こ見せてあげたついでにボクのち○毛あげたら2万余分に貰えました。。
| 次は庭で全裸予定w | 2010/01/09 9:55 PM |
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