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できそこないの男たち(福岡伸一) 
評価:
福岡伸一
光文社
¥ 861
(2008-10-17)
Amazonランキング: 3399位
Amazonおすすめ度:
福岡さん、教科書を作って下さい
性別の起源をめぐる、興味尽きないエッセイ風の論考
文系派科学者のジレンマ

『生物と無生物のあいだ』を著したことで知られる分子生物学者の福岡伸一氏による著作である。文章力に定評のある著者だが、本書でもその力が遺憾なく発揮されている。男女の性差が何によって決定付けられるのかを丁寧に説明している。
 人間のデフォルトは「女」であること、それをカスタマイズして「男」ができあがることを遺伝子の振舞いを通して解説する。タイトルの「できそこないの男」という表現は、能力や機能としての「できそこない」ではなく、男というものの誕生の経緯が「女のできそこない」であるという意味である。これらの知見は分子生物学の進展なくしては得られぬことばかりである。

 それにしても人間のみならず、生物の仕組みというのは何とミステリアスなのだろう。前著「生物と無生物のあいだ」ではワトソンとクリックによるDNAの発見に至る経緯が書かれていたが、その途方もないDNAの情報量を連綿と繋ぐ生殖の仕組み、女がデフォルトをカスタマイズしてまで男を生み出さねばならない理由、遺伝子の中で性差を決定付けるために存在する記述の発見など、読み手をして興奮に誘う内容で本書は満ちている。

 「生きる」という当たり前の日々を送る我々人間。しかし、その「生きる」ことを根源的に「生み出してきた仕組み」のことなど露知らぬ我々。人間が己を知るということがまったく遥かであることを嘆息交じりに感じざるを得なくなる。分析哲学の祖といわれるヴィトゲンシュタインは、「我々が何を考えることが出来ないのかを考えることはできない」と述べていた。若干意味合いは異なるが、この分子生物学のような学問の進展により、人間自身の成り立ちに関しては「考えることが出来ない領域を狭めていくこと」を実現できているように思う。ざっと700万年ほどの歴史を人類は持っているという。人間のプログラムの実体であるDNAの存在など考えることが出来なかった時代がある。それを思考可能な範疇に誘導してきたのが科学の力であろう。著者は生物学は「HOW」には答え得るが、「WHY」には答えることができないという。この「WHY」に解を与えるもの。人類は科学・宗教・哲学を止揚させて、万人を安らかにする解を求めていくべきであると私は考えている。

 ともあれ、本書の内容について個人的に刺激を受けた箇所がある。それは遺伝子(Y染色体=男性の根拠遺伝子)の解析から人類の系譜を辿る取り組みについて書かれている点である。ここでは日本人の系譜についても書かれており、非常に興味深い論考が示されていた。近年、ナショナリズムを声高に叫んで排外主義を採り、レイシストそのものの体を為す連中が散見されるようになっている。著者は天皇家の万世一系という考え方について、Y染色体の観点からその是非を捉え直している。
 また、日本民族というものの成り立ちについても言及しており、日本人男性のY染色体の多型性から判断すると、日本が単一民族であるという主張は到底成立しないとし、むしろ日本列島は「人種のるつぼ」であると論じている。大陸の人間と日本列島の人間の関連についても遺伝子的に相同が容易に認められ、大陸人の遺伝子分岐の時代は約3,300年前、その移動が2,800年前と推定されるそうだ。まさにその時代は歴史学でいうところの「弥生時代」であり、稲作や鉄器を持ち込んだとされる「渡来系弥生人」の存在が遺伝子レベルで追認されることとなった。その子孫が我々日本人である。日本は大陸の国々と一衣帯水の国であることが遺伝子レベルで肯定される事実を見るとき、偏狭なナショナリズムや単一民族を誤信することによる排外主義がいかに実態とかけ離れた暴論であるかを改めて確認した次第である。詳しくは本書を参照されたい。
 なお、全ての人類の遺伝子を辿っていくと、やはりそれはアフリカに行き着くとのこと。人類発祥の地、アフリカ。約700万年前のものとされる人類の頭蓋骨もアフリカ・チャドで発見されている(トゥーマイ)。

 最新の科学的知見が、最古の我々を辿らせる。
 人間が科学の力を使って過去を知り得るならば、また、未来をも見通すことが出来るであろうか。否、未来を制御し得るのは「人間の意志の力」であると私は信じたい。

 蛇足になるが、本文中にある「人間は考える管である」との生物学的知見からの言葉は非常に味わい深いものであった。

| 本ココ! | 08:26 | comments(34) | trackbacks(0)
<勝負脳>の鍛え方(林成之) 
評価:
林 成之
講談社
¥ 735
(2006-10-21)
Amazonランキング: 3651位
Amazonおすすめ度:
脳外科医の書いた、脳のトリセツ。抜群の仮説力有り。
結局根性論なんですけど。。。
気軽に読める

 今回紹介するのは脳外科医である林成之氏の著書、『<勝負脳>の鍛え方』である。林氏はサッカー日本代表監督だったオシム氏が脳卒中で倒れた際に治療にあたったことで知られている。その後の動向が不安視されていた監督だったが、氏の治療の末に日常生活を送るレベルにまで回復しているようだ。
 彼は脳外科医としての豊富な臨床体験をもとに、知られざる脳機能の本質について大胆に仮説を立てて持論展開する。もちろんそれは単なる推測を連ねたものではなく、医学的根拠を提示しながら脳が本来持っている力をいかに引き出すかという視点で本書は執筆されている。「勝負脳」というのは著者の造語であるが、社会そのものが「あらゆる分野の戦場」であることを考えるとき、人間の脳はその戦場を生き抜くための勝負を司る存在であるとも言える。脳に内在されていながら我々が取り出しえない「能力」を引き出して、あらゆる戦いを制していく力を「勝負脳」と定義すると言って外れてはいないだろう。
 本書は著者としては簡便な表現を使って書いているとのことだが、少々専門用語が飛び交う構成になっており、読み疲れることもあるかもしれない。ともあれ手短に読み手としてのポイントを示してみる。

・脳の病気から回復する人には「明るい性格の人」が多い


 
数多くの臨床での手術体験の結果、著者が得た確信である。明るい性格の人は脳内報酬物質「ドーパミン」が多く生成され、機能障害の改善に自ら寄与する。脳における仕組みについては本書を参照されたい。

・サイコサイバネティクス理論の応用


 人間が成功するか否かは現象の受け取り方次第であり、個々の人間が抱く目的を達成するために必要なのは「成功イメージ」を抱くことが必要だとするサイコサイバネティクス理論を応用して、著者は次のようにそのまとめを記している。

1.目的と目標を明確にする。
2.目標達成の具体的な方法を明らかにして実行する。
3.目的を達成するまで、その実行を中止しない。

 この場合の目標は「手段」と言い換えてもよいだろう。「頑張ります」ということほど曖昧なものはない。何を頑張るのかが定まらないから、結局「頑張れない」ことになる。これでは目的達成は程遠い。目的と目標(手段)を明確にしながら、手段の質的向上を図り、それを継続し続けることが必要だということだろう。

・脳を最大限に活かす習慣を

1.性格を明るくして常に前向きな思考をする。
2.常にやる気をもって行動する。
3.何事も気持ちを込めて行う。
4.常に対しても勉強し、楽しむ気持ちを持つ。
5.感動と悔しさは生きているからこその宝物と考え、大切にする。
6.集中力を高める。
7.決断と実行を早くする。

 最近の「脳ブーム」によって多種類の本やゲームなどが出てきている。それらは大なり小なりこのような表現で脳の活性化を提案するものが多いような印象を受ける。著者は「人間性を高めることで、運動神経がよくなり、運動の達人になることができる」とも主張する。個人的には2番や3番などは、意識して行わないとなかなか習慣にはならないように思うが、これらを踏まえた上で4番を実践すると良い意味での「勝ちパターン」が形成されるというのは頷けるところだ。

 本書では主にスポーツを通して脳の使い方の地平を切り拓く提案をしているが、特段スポーツをしない人に対して、個人における体の正しい姿勢のあり方や、集団生活・競技における思考法についての考察など、我々の実生活に即したアドバイスが散見される。また、人間の「頭の良さ」が何に由来するかという説明も実に合理的で、実体に即したものと言えるだろう。脳の機能を知る以上に、「いかに使うか」を追求したい人にとって、本書は良き示唆を与えるものであろう。

| 本ココ! | 08:39 | comments(0) | trackbacks(0)
疾走する精神(茂木健一郎) 
評価:
茂木 健一郎
中央公論新社
¥ 735
(2009-05)
Amazonランキング: 11615位
Amazonおすすめ度:
茂木健一郎という多様性の宝庫

 脳科学者・茂木健一郎氏のエッセイ集である。小気味良いテンポで筆を走らせているように見える中で、人間が抱えるアポリア(難問)に挑戦し続ける姿勢が窺える。20に小分けされたテーマを束ねて本書は構成されており、どのテーマも短文でありながら、読者に命題のホシを豊かに掴ませてくれる。
 私は彼のことを尊敬している。何故、尊敬するのか。それを彼の魅力について考えてみることで説明してみたい。私が考える茂木氏の魅力は、彼が気鋭の脳科学者であることとか、TV等のメディアに出演して他者を唸らせるような言説・問題解釈を展開することなどとは関係がない。何しろTVを持っていない私は彼を電波の中で捕捉することはまずないからだ。

 物事を詳細に考える立場、すなわち学問を扱う立場になると、「言葉」の使用に関して多少なりとも慎重になるというか、神経質になる部分があるものだ。それは言語機能の限界を強く感ずるからである。誰であれ己の意図を正確に表現しきるほどの言語は持ち得ない。脳がはじき出す感覚(別言すれば心といってよい)の大きさに人間言語が到底追いつかないからである。それなのに学問が何かの見解を表出しようとすれば必ず言語を用いねばならない。現在のところはそれしか手段がないからだ。押井守監督の『イノセンス』という作品があるが、あれは脳と脳を直結して情報共有を行うシステムを持つ世界を描いていたように記憶する。仮に作中にあるようなことが可能ならば認識情報を言語に変換する必要はなく、すなわち対象の分析における必然的捨象が起こらないことになり、いちいち事物の説明に言語は必要なくなるかもしれない。だが、少なくとも現在はそのような世界になっていない。やはり言語に頼らざるを得ないのである。学問は精緻であるべきだという暗黙前提があるが、その唯一の表現手段である言語が常に不完全性を伴うものであるとは何たるアイロニー(皮肉)であろうか。
 学問についていえば、世にある数多のモノ・コトの究極的本質を追うとなると、あまりにも解けない問題が多すぎる。時に愕然とするほどの混沌に人間は投げ出されることになる。現代は学問のカテゴリーも細切れ状態になっていて、それらを追求する専門家は確かに存在するのだが、残念なことに人間が「本当に知りたいこと」は細切れのそれではなく、ある分析のために捨象されざるを得なかった事象を含めた「全体的な何か」なのだ。それを他者に伝達するために言語という手段を用いざるを得ない人間が生活の上で、研究の上で、自己に内観されたある種の認識をありのままに提示しようとすることの難しさを私は少なくとも知っているつもりだ。その意味において、茂木氏があるテーマについて確信的に、または大胆にと言ってもよいが、現段階における学問の到達点を駆使して自説を縦横に展開する様は実に痛快で面白い。また、彼が脳科学を専門領域とするのみならず、理論構築のために援用する知識が多彩な分野を横断的に貫いている点も積極的に評価したいと思うのだ。何故なら人間の生はそもそも「分野」の複合によって成り立っているものではなく、意識することなく全体を行使しているからだ。これは人間を語ろうとするならば限定的な分野からの解釈に固執してはならないということを意味してもいる。

 形而上的哲学の課題を離れれば、どのような人間であれ今を生きていることはあらゆる思考の前提である。人は日々、時間という名の膨大な量の経験を浴びるように経て、無数の選択をしながら生きている。その膨大な量の経験というものが人間に与える微量な影響力まで分析し切ることはほとんど出来得ないであろう。また、生きるということは「ある特定分野」でそうなのではなく、当人とその環境の全体を使う営みのことだ。分野というものはそもそも「人間の都合」の産物である。仮に学問がそうした「分野」の規定を予め必要とするものならば、それはどこまで行っても「人間の都合の産物」に成り果てる蓋然性がありはしないか。我々が日常生活を送る途上で得る感覚や直観は、とてつもなく全体であり、とてつもなく奥深いものなのである。そう考えると学問も最終的には「分野」で収束するのみならず、「全体」を志向するものへと展開していかなくてはならぬものと私は信ずる。
 その点、茂木氏はよく自説の中で「自分が生きてきた経験・感覚」を述べ、それらを踏まえながら最新科学の視点での再解釈を試みる。それは格別に学者でない我々一般人でも十分に感じる平易な感覚を提供しつつ、その「当たり前の感覚」がどれほど複雑なメカニズムによって成立しているかを論理的(あまり使いたくない語であるが)に説明してみせるスタンスである。学者の仕事はまさにそこであるべきだと思う。現状における学問的成果を縦横無尽に投入しつつ、流れるような華麗さを伴って事象を解説し、またその内容に関しての思考に一定の確信を持っていることが見る者の目、聞く者の耳に生命の躍動(エラン・ヴィタール)を与えるものであると言える。機能的不完全さを持つ言語を堂々と使役して恐れのないように見える彼の姿は実に眩しい。そしてそれが我々の実態生活と遊離することがないのは、彼の専攻が人間中枢を裁量する脳科学であることに由来するのであろうか。

 あまりにも書評の枕が長くなりすぎた。どこかの哲人の言葉だったか、「そんなに分かりやすくなければ、もっと分かりやすかったのに」との指摘が胸に去来する。

 本書には現在の脳科学でも「意識」が何に由来するのかは突き止められていないと書かれていた。だが、不思議なことに人間はその構成要素を突き止めていないにも関わらず、それに「意識」という名を与えて、その領域を捕捉しているのである。冒頭から「言語は不完全である」と連呼してきたわけであるが、この場合は言語機能の大きさに嘆息するばかりだ。モノやコトや感覚といったものにまで、言語は名を与えることができる。そしてその領域を同じ語を使う者同士で共有することができる。言語は曖昧さすら大胆に許容してその全体を投影させることができるツールである。人間が高度に文明を築き上げてきたのは、この「言語」によるところが大きいといわれるのも首肯できるところだろう。
 まとまりのない内容になってしまったが、茂木氏には個人的な要望もある。できれば、人間が元来持っていたであろうプリミティブな力に関する考察もして欲しい。私は今ではほとんど失われて、迷信に近いような存在になってしまった「テレパシー」に興味がある。言語がない時代の情報交換の手法だったのだろうか。あるいは自然や獣を相手に危険を避けるための信号のようなものだったのか。現在もその名残が「虫の知らせ」という多大な事例を持つ現象に営みを残しているように思うのだ。イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーによると、新しい技術が台頭すると古いそれは淘汰されるが、その新技術が以前のものを完全に代替することはなく、むしろ培ってきた能力の喪失を余儀なくされるトレードオフの関係にあるというような説を述べている。これは人間が技術革新を経る度に本来持っていたスキルを喪失させてきた可能性を指している。テレパシーで言えば、より高度に事象内容を伝達する言語コミュニケーションが発達した故に、テレパシーのような単純能力は退化を余儀なくされたと仮説してみたわけだ。「虫の知らせ」を分析してみれば、それは言語のような濃密な内容を持つものではなく、むしろ「知らせる」という機能に特化しているように見えなくもない。つまりプリミティブなのだ。
 私は人類はそうした能力を持っていた根拠が、いまだ現代人の脳内にも奥深く残されているのではないかと考えている。時にそのような能力を持つ少数の人間がクローズアップされることがある。TVや雑誌での紹介、あるいはアカデミズムの検証にも耐え得るような能力を持つ者がいたように記憶する。人類のプリミティブな能力を現在も引き出すことができる、すなわち、能力を脳内に未だに残した人間がいるということだ。また、通常の人間でも好悪の感情を即断したり、互いを惹きつける縁を創造したり、何かを見通す直観であったり、「ピンときた」などという非論理的な判断基準を持ち出したりすることは頻繁に行われており、実は「喪失してきた能力」がそのような私たちの脳の不可解さを構成する要素でもある可能性を素人なりに想像しているのである。

 無為に長い文となったきらいがあるが、茂木氏には是非とも、こうした角度からの研究も進めていってもらいたいと個人的に願うものである。会って直接お話する機会があれば手っ取り早いのだけれども…(笑)

 ところで、今回紹介した本(紹介するはずだった本)だが間違いなく良書である。一冊、家に置いて損はない。人間個人のパーソナルな視点のみならず、社会を構成する人間という角度からも読む者の概念を押し広げてくれる内容を備えていると言える。是非とも手にとって見て欲しい。
| 本ココ! | 08:18 | comments(1) | trackbacks(0)
働き方革命(駒崎弘樹) 
評価:
駒崎 弘樹
筑摩書房
¥ 735
(2009-05)
私はどんなふうに生きていきたいか?
夫と、働き方について話してみたくなる本
とても面白いです!

 ここ数年で「ソーシャル・ベンチャー(社会起業)」という語を耳にするようになった。著者の駒崎弘樹氏はその気鋭な企業家の一人という位置づけに当たるようだ。もっとも氏自身は、自ら主宰するNPOを「一零細企業」と呼んでいる。謙遜でもあり、事実でもあるというところであろう。なお、この本の内容はソーシャル・ベンチャーの中身とは特に関連がない。

 本書を2度読んだが、全編を通して平易な文体で書かれており、等身大の著者の心の動きが伝わってくる。一読すると、彼が働き方を変えたことで「初めて人間になった」ということが分かる。もう少し突き詰めると、「考え方を変えた」ことで「働き方を変えた」のである。そこで得た感動があり、変化した環境がある。「考えてみると不必要に忙しかった自分が、働く意義と時間の使い方を問い直し、実直にその実践をしてみたら、こんなにも自分自身が真の意味での豊かさに接近していけるとは夢にも思わなかった」というようなことが実体験として書かれている。そして現代日本に足りないのは、この「真の豊かさ」であり、この不足そのものが社会を侵食し、徐々にその活力を低下させていると説く。
 本書は彼が経験した変化が実は現代社会が抱える問題解決への入り口と直結していると訴えるものだ。「働く」とは生計を立てるための仕事だけを指す語ではなく、個々人の生活全体を支える行動すべてを射程にするものであると述べる。一説によると、「働く」という語は「傍を楽にさせる」というところから来ていると紹介されている。膨大な時間を「仕事的働き」に費やしている現代人には、そういうパラダイムシフトが必要で、日本の閉塞感の打破と次世代構築のためには、どうしてもこうした「働き方革命」が要請されると主張するのである。
 彼は嫌うかもしれないが、それは「生き方革命」と呼べると言ってよいだろう。人が生きるということと、人が働くということは、本質的な意義において差異は認められないはずだ。生きることと働くことを思考の上で、また事実の上で分離させることが人間を破壊していくのである。

 ところで、本書では「忙しい」という語が彼の口から頻繁に飛び出てくる。忙しいことがステータスで、忙しいことが働いている実感で、忙しいことが前進である。著者はそのように考える人物であったらしい。事実、主宰するNPOを運営していくための膨大な処理事項はまさに「忙しさ」と直結するわけだ。「働く」の語源を示す場面があったが、「忙しさ」の「忙」というのは「りっしんべん+亡」で成立していることに気付いているだろうか。つまり「心が亡くなっている」ことを「忙」と呼ぶ。若干ラジカルではあるが、忙しさを口にする人ほど豊かな人間とは程遠いのではないか。
 仕事量は多くても、それは即「忙しさ」を意味しない。心をどのように持つか、畢竟、心を亡くさない真の豊かさを持つことによって、人はどのような状況であれ「人間」でいることができるものと信ずる。彼はこれまで多忙に対応するため、様々に極端なまでの効率化を己に課してきたようだが、その果てに待っていたものは「人間ではない何か」であったようだ。その意味で私は冒頭、「働き方革命」を成し遂げた著者を「初めて人間になった」と評したわけである。

| 本ココ! | 08:36 | comments(0) | trackbacks(0)
聖灰の暗号(帚木 蓬生) 
評価:
帚木 蓬生
新潮社
¥ 1,575
(2007-07)

 この作家の本を読むのは初めてで、名前を聞いたこともなかった。本書はミステリー、あるいはサスペンスといったジャンルに属するものと思われるが、私は「ジャンル分け」に拘っていないし、価値を見出していないので、そういう見地からの感想は避ける。なお、本書の位置づけは全編を通して「フィクション」という扱いになっている。

 物語の舞台は南フランス。キリスト教(ローマ教皇庁)から異端と認定され、「生きたまま焼かれる」などの徹底的な弾圧を蒙った「カタリ派」にまつわる話である。須貝という若手の日本人学者がフランスの学界でカタリ派の歴史について講演を行い、今日に伝わる一連の歴史解釈が「ローマの意向」を多分に含んでいることを指摘し、「弾圧された側」から見た真実を究明する必要のあることを訴える。調査中に偶然入手した古き地図から、カタリ派の何らかの痕跡を直観し、須貝はその調査の旅に出る。何ゆえか旅先で起こる様々な調査妨害行為の中、徐々にカタリ派の残した真実が明かされる。この調査が妨害される意図は何なのか。過去を調査しながらにして、現代的問題に接続する印象を与えるものでもある。
 
 本書は「過去を辿るための謎解き」と、「真の信仰(キリスト教)とは何なのか」という問いを並行して捉えさせる内容と言ってよい。私としては謎解きそのものよりも、信仰のあり方について多くを考えさせられるものであった。
 キリスト教が成立して千年も経つとローマも陰に陽に「権威そのもの」の姿を見せるようになる。そうなると、「ローマの考え方がキリスト教」なのであって、「キリスト教の精神がローマにある」というものではなくなってしまう。聖書を信仰の根幹に据えて民衆の中に信仰を確立しようとする「カタリ派」が自らを真のキリスト教徒と認知する一方で、「ローマこそキリスト教」と強弁する高級聖職者達はこれを一切認めず、なおかつ宗教的権威と圧力によって軍隊を組織し、意に沿わぬ者を「悪魔」とあげつらい、徹底的な弾圧・排除を企て実行に移す様子は実におどろおどろしい。すでにローマは「キリスト教の看板を掲げた身勝手なローマ教」でしかなかったと言えそうだ。特に本文中に描写される宗教尋問で、カタリ派の人間が聖書の語を用いて正しきキリスト精神の軌道を論じる段での、ローマ聖職者のとった完全無視の態度に私は冷や汗が流れるのを禁じえなかった。何故なら、キリスト教の正当性を保障すべき役割を持つはずの聖書の言葉が軽んじられて、当代の聖職者の意思が宗教的正義を肯んじえるものとすると、明らかにその聖職者が「絶対者」として君臨する世界になるからである。宗教は人間精神に内在する可能性を認め、それを開発するものであって、それ以外のものではないはずだ。これはもはや宗教と呼べるシロモノではない。この物語では聖書を正確に滔々と語る正直な人間が、次々に異端とされて「生きたまま焼かれていく」のである。逐一、燃やされる人をローマの聖職者は「裁きの目」で凝視しているのだ。このことに恐怖を感じない人など誰もいないだろう。

 人間にとって無宗教という信仰を持つ者を含めて宗教は必要だ。だが必ずしも宗教的権威がその宗教を正確に理解し、伝播させるかどうかは別問題だ。ここがごちゃ混ぜでは人は判断基準に迷うことになる。そうしたところに「宗教的権威(者)」が付け入ってくるのである。宗教的権威者の判断こそ、宗教の正邪の判断基準であるという考え方は非常に危険だ。権威者・権力者は意のままに人間を操ろうとする「巨悪」をその心に持っている。それを排除しなくてはならないのだ。信仰心で繋がった者の大きな仕事(この場合、社会的使命と言い換えてもよい)はそこにあると私は考える。本書のテーマであるキリスト教・カタリ派の人々は、その意味で宗教的権威の欺瞞を鋭く指摘し、自らが焔の中で焼かれていくことによって、「キリスト精神を正しく受け継ぐ者」としての信仰を再確認し、裁いた側のローマ聖職者達には「キリスト教の信仰者に似て全く非なる者」という永遠の汚点を刻ませたとも言えそうだ。

 それにしても、信仰の拠り所を聖書に求めて正しく生きようとすることが、生きたまま焼かれるまでに苦痛を伴うものなのかと思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。権力者と宗教者の戦いも壮絶であるが、宗教権威者と信仰者の戦いもまた壮絶である。人間が「正しさ」を求める生き物である以上、こうした問題は常に起こりうる。そのような時に私がそこにいたならば、権威を振りかざして自己保身を図る弾圧側ではなく、やはり苦難と共に生きる民衆側の一人でありたいと考えながらページをめくっていた。

 なお、作中で歴史家の使命について須貝(アキラ)とその指導教授の意見が交わされているが、印象的な部分をついて以下に挙げておくことにする。

・「アキラ、私たち歴史家の仕事は、あそこに葬られている偉人たちの歴史を顕彰することではない。それは誰か、他の連中に任せておけばいい。私たちはそれまで見えなかった過去を見えるようにしなければならない。見えているのに気づかなかったり、見ようともしなかった過去を明瞭にするのが任務だよ。ちょうど科学者が顕微鏡をのぞいて細胞を発見したり、病原体を見つけたりするのと同じだ」

・「弾圧された側の言い分を一切抹殺しておいて、弾圧した側の言い訳を大量に流す。いつの世でも、この歴史は繰り返されている。イメージは、この人為的な操作でどのようにでも変化する。その操作のからくりを明らかにして、埋没した歴史を甦らせるのが、私たちの務めだ」
| 本ココ! | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0)
金正日の正体 (講談社現代新書 1953) 
 日本では北朝鮮に関する知識人として著名な重村智計氏の著作。毎日新聞記者・論説委員の経歴を持ち、現在は大学教授である。今日では氏の北朝鮮論評は世界でも注目される類のものであるようだ。テレビで北朝鮮に関する報道がある際にはコメンテーターとしても活動している姿をよく見かける。氏は北朝鮮問題を論じる第一人者と言ってよいだろう。本書を読めば、氏のジャーナリズムに対する姿勢がよく伝わってくる。北朝鮮に関する報道をするたびに強い妨害に遭ってきていることも述べられているが、そうした妨害に対する反発感情から批判を書いたりするのではない。諸外国からは窺い知れない北朝鮮の内部実情というものを、きちんと系統立てて論理的に(学問的に)把握しようと努めていることが分かる。
 ともすれば、感情的になりがちな日本の北朝鮮への認識あるいは評価があるが、本書の執筆スタンスに触れれば、また別の角度からの「北」の姿が浮かび上がってくる。北朝鮮問題の報道に限らないことだが、日頃からウンザリさせられるマスメディアの偏向報道姿勢を肌で感ずる人にとっては、彼が指摘するジャーナリズムの決定的欠陥に対して大きく首肯するところがあるだろう。これはもちろん氏の論説をも鵜呑みにするのではないことは言うまでもないことだ。だが報道といい、情報といっても、それは必ず「人間」を介して行われるのであって、人間なしに成立などしない。故に情報源である人間の質というものを無視することは愚かである。つまりジャーナリズムは事件事象の真実を追究するものであり、かつその周辺にいる情報提供者の人間としての質を確認し続ける作業であると言ってもよいだろう。出来事の現場にジャーナリストが居合わせるわけではないのだから、どうしてもこうしたスタンスに着地せざるを得ないのである。特に北朝鮮のような工作国家の真実に迫るためには情報提供者の質の問題は避けて通ることができない。氏は接している人間の質を判断し、そこから情報の確度を担保する手法を採り、その上で情報の追試を行うのだそうだ。推測や予断で情報の受け手をいたずらに煽ることのない、実に現実的な取材法であると言えよう。そうした取材態度であるからこそ、氏の論説には説得力を感ずるのである。 
 ともあれ、そうした著者の執筆スタンスが読者に信頼感を抱かせるのと同時に、内容の新鮮さ・ドラマティック性も相まって、本書は実に「面白い」。

・序章だけでも読む価値あり

 序章のタイトルは「情報学のすすめ」である。ここでは「北朝鮮という国家の見方」を説明しているが、そのスタンスは情報に携わる者、とりわけジャーナリストとしてのあるべき姿を語ってやまない。ほんの20ページほどの序章だが、実に示唆に富んでいて興味深い。というよりも、ジャーナリズム世界の標準がこのようでなくてはならないのだと思い知らされる。本書を読み進めてみると、いかに我々が日常接している北朝鮮情報の質が悪いかを痛感せざるを得ない。すなわち、これがマスメディアの現状の質であると換言しても大げさでない。このような状況で流布される北朝鮮情報によって、かの国を「知った気になっている」ことが一番恐ろしいことだ。本書はそうした警告に満ちているし、「それでは北朝鮮の実際はどうなのか」という我々の自然に湧いてくる疑問にも丁寧に応えている。
 だから「面白い」のである。
 ざっと印象に残ったところを挙げてみると、北朝鮮が儒教社会主義を採る国家である(あった?)こと、平壌が集団指導体制を敷いている可能性が高いこと、金正日には影武者(ダブルと呼ぶ)がいること、何度も日本に入国し赤坂で遊んでいたこと、既に死亡しているという説があること、朝鮮総連は北朝鮮の工作機関であり、かつ本国の意向通りの動きをしていないケースがあること、後継者問題を見る時のポイント、北朝鮮高官の人間性の実際、金正日の国家統治手法とマキャベリズムとの符号の考察など、北朝鮮をただ良し悪しだけで見ているのとは違う「真実に迫る気迫」を感ずる文が並ぶ。
 現状で存続している国家を語る以上、最終的結論が書けようはずはないが、金正日総書記という人物を知る手がかりとして、本書は質の良い基本的知識を提供してくれるものであると確信する。
| 本ココ! | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0)
脳を活かす勉強法(茂木健一郎) 
評価:
茂木 健一郎
PHP研究所
¥ 1,155
(2007-12-04)
Amazonランキング: 68位
Amazonおすすめ度:
ドーパミンをだそう!
分かりやすくスラスラ読めます。
著者の地頭の自慢本?
 近年、とにもかくにも「脳ブーム」が巻き起こっているようだ。研究の進展もそうだが、こうして本や雑誌、はたまたゲームにも登場するなど、この分野は一つの社会現象と言ってもよいほどの広がりを見せている。格差社会という語が定着し始めているこの頃だが、それを「能力差社会」と捉える人も少なくないようで、とにかく知識やスキルを効率よく身につけて混沌社会を勝ち抜きたいという志向が生まれている。人の親ともなれば、「我が子には何とか勉強してもらって、良い学校に入って、人生を飾ってもらいたい」と願うのも無理はない。それはもはや国民的需要とすら言える。
 そこで「脳の訓練」が注目されるわけだ。脳が人間を統括している臓器であることは誰でも知っている。記憶、行動、情動、意識、無意識等の人間性に関わる部分を管理管轄するのみならず、元来動物でもある人間が持つ生物的機能を総合的に把握し、生命維持に関わるあらゆるプログラムを並行処理するという「凄まじい臓器」が脳なのである。まさに人類が700万年かけて改良進化を積み重ねてきた「宝物・宝器」と呼ぶにふさわしい。とある研究者が脳の記憶容量は10TB(10テラバイト=10,000GB)に相当すると言っていた。脳はそうした記憶も重要な機能の一つに違いないが、人間の脳の本質的な凄さは「生存維持に関わる高次複雑機能の統括」と「楽しみや喜びの徹底追求性」がインストールされた臓器であるという点ではないだろうか。しかし我々人間は脳が絶対的に自分の持ち物であるにも関わらず、それを上手く扱って自己開発し、人生向上を図ったりするという用い方をよく知ってはいないようだ。実にもったいないことである。
 
 話の枕が長くなったが、本書は自分の脳を開発できない「もどかしさ」を排除し、主体的に脳を鍛えていく方法をわかりやすく説明する。著者の幼少時からの体験なども紹介しながら、「脳に支配される人間」から「脳を扱う人間」への転換を読者に勧めていると言ってよいだろう。これはいわゆる「学問の書」では全くない。統計資料などもほとんど存在しないし、そういう意味では本書が訴える論理が科学的客観性に基づいていると言うよりは、著者本人の研究と体験を担保にその思考線を辿らせるという意味合いが強いと言える。こういう本はそれで良いのだ。読者は客観性の担保以上に、「茂木健一郎」という人がどういう考え方で自らを鍛えてきたのか、何故脳科学に取り組んでいるのか、脳をどう考えているのか、ということに興味があるはずだ。それを自己の生活に役立てられれば充分だろう。このことは取りも直さず、茂木健一郎という個人が放つ魅力への興味と換言してそれほど外れてはいないはずだ。
 ともあれ本書のような執筆姿勢に不満を持つ読者もあるだろうが、個人的には大筋でその主張に同意することがほとんであった。むしろ本物の学者というのはこういう仕事が出来て欲しいものだとも考える。一読の価値がある。ちなみに私は本書を二度読んでこれを書いている。小さな章立て構成になっているが、「捨て章」はない。難しい話もない。どこから読んでも構わない内容である。私が考える本書における「ホシ」は以下の通りだ。参考になれば幸いである。

・大前提として脳を開発するには「脳を喜ばせること」が最善である(ドーパミンが出る)。
・脳に喜びを「教える」ことが出発点。
・当たり前を経験しても脳は楽しまない。脳には困難を克服する喜びを与えよ。
・脳は負荷をかけて成長させよ。少々の「無理」を突破することで脳は歓喜する。
・脳の負荷掛けには「時間制限」を自らつくり、その制限と戦い打ち破るべし。
・脳を歓喜させる「クセ」をつけよ。
・理系や文系など関係ない。そのような「脳」はない。
・他者と成績や結果を相対して自分の位置を確かめる行為に(脳の違いの観点から)意味は薄い。
・ミラーニューロン(環境適応、相似??)の働きが期待できるため、自己を啓発できる環境に置き自己を磨け。
・思い立ったら、間髪おかずに着手する。脳が集中できるクセもつく。
 
 以上、思いつくままにざっと挙げておいた。その他、効率的な記憶方法などの紹介も参考になった。最後になるが、著者は人間の価値というか人生の価値について末尾に大要として次のように語っている(ように私は記憶している…)。

 

 人間には財産、衣食住、あるいは美貌による魅力はそれなりにあるだろうが、本当の人間の価値は、誰かが人生の困難に遭遇した時に「この人に相談したい、話を聞いてもらいたい、アドバイスをしてほしい」と思われるような人間であるかどうかではないだろうか。そのような人間は幸せだ。

 

 この著者の言葉が「脳を鍛えると」いう角度から見ると少し別の観点ではと思う人もあるだろうが、実はそうではない。脳を訓練するということは、結局は精神的スキルの顕著な前進が伴うものである。賢明性は確固たる精神を養い、その精神がさらに当人を賢明にしていくものだ。知識の詰め込みが「賢さ」の異名であった恐ろしき時代は過ぎ去った。脳を鍛えるということは、そのまま「人格を鍛える」ことに接続しており、人間理解への扉を開く歩みでもある。そしてそれは人間性の練磨へと昇華していくと言ってよい。著者の最後の指摘がそのままそういう意味であることを率直に受け止めて間違いないものと私は信じているのである。
| 本ココ! | 08:38 | comments(0) | trackbacks(0)
人は見た目が9割 (新潮新書) 
評価:
竹内 一郎
新潮社
¥ 714
(2005-10)
Amazonランキング: 2376位
Amazonおすすめ度:
面白いが,研究書ではなくエッセイ
あまり実のない話
すばらしい!
 本書は近年、大ヒットした新書の一つ。正直に言ってしまえば、「タイトル勝ち」した典型例の本だという以外にさしたる感想もない。古本屋にて105円で買った興味本位の読み手である私の姿勢も「まとも」とは言えないかもしれないが、それを差し引いても本書の内容が充実しているものと評価することはできそうもない。
 著者は全編を通して、人間関係においてノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)がどれほど重要な位置を占めているかということを訴えている。本書で紹介されている心理学者の説によれば、人間関係における言語の役割は7%ほどだという。つまりは残り90%以上が「それ以外の要素=見た目や雰囲気etc」で占められており、それに意外と気付かないのが我々人間なのだという展開である。

・では、どうすべきかについては読み取れない

 ノンバーバルコミュニケーションが人間の認識の多くの部分を支えているという主張は間違っているわけではないだろう。それが大切だというのも否定しない。だが、本書のタイトルは明らかに読者の認識をミスリードさせる危険性を孕むものと思う。読者に「人間は結局見た目だよ」と思わせるのは著者が本来求めるところでもあるまい。自己を開発し、向上させて精神的欲求を満たしていこうとする人間を嘲笑うかのようなタイトル付けには感心しない。人間の価値を判断する際に「実は9割が見た目である」などという論旨をどうして許容できようか。本書の帯に「理屈はルックスに勝てない」とあるが、そもそも人間を判断する基準として理屈重視かルックス重視かという「立て分けそのものが欠陥極まりない」ということを指摘しておこう。巻末辺りまで来ると「服装で人格も変わる」ようなことを書いている。服装は縁(きっかけ)に過ぎない。変わる本体は心である。なれば心のあり方の方を探求すべきであろう。このような指摘をするのも「当たり前すぎて」何か場違いに感じてしまうほどに本書の論旨はいびつである。

 擁護する点も考えてみる。これはあくまで読み手の想像力の範囲でしかないが、この本は恐らく著者の手を離れて編集部でタイトル・帯・世論への訴求方法を作られてしまったのではないだろうか。「人は見た目も大切」くらいのタイトルだと内容ともそれほど齟齬はないのだが、「人は見た目が9割」というタイトルは「タイトル自体で読み手を安直に誘導した」と難じられて仕方があるまい。
 思うに、著者自身が少なからず本書の成立過程(編集部の編集姿勢)に対して驚きを持っているのではないだろうか。「著者の意図するところと大分違うタイトルが組まれてしまった」とでもいうような。そんな気がするのである。
 あえて読むところとするならば、第7節の人間同士の間合いの取り方に関する部分を挙げておこう。本書は7節を読めばそれで十分である。
| 本ココ! | 08:31 | comments(0) | trackbacks(0)
馬上少年過ぐ (新潮文庫) 
評価:
司馬 遼太郎
新潮社
¥ 620
(1978-11)
Amazonランキング: 198595位
Amazonおすすめ度:
司馬未体験の方は是非。
充足感
粒ぞろい
 本書は司馬遼太郎の短編が数編収録されている。タイトルの「馬上少年過ぐ」は伊達政宗の章。実母との確執や父・輝宗もろとも撃ち殺した事件の顛末についても書かれている。幕末の越後長岡藩の家老になった河井継之助を書いた章もある。河井に関しては同著者の「峠」が著名。
 全編を通して戦国期、幕末期、江戸期を舞台にした内容。どの章も程々の分量で手軽に読める。文学における当然の手法でもあるのだが、登場人物を踊らせながら当時の社会の「クセ」を読み解いている。日本人の機微に関しては数百年前と現在と、あまり変わっているわけじゃないと感じたりもする。人間は生まれては死んでいく。英雄もまた然り。小説の題材になるような人物に言えることは、その生き方が時代、制度、地域風習、突飛さ、あるいは普通平均を象徴しているということではないだろうか。

 もし普段持ち歩いているカバンに本の一冊も入っていないのであれば、本書をしのばせておくのも悪くない。現代の空気を吸う我々も、彼らと同じように「歴史」になる日が訪れる。そもそも時代小説というのは、読み手である自分がいつかは歴史になることをおぼろげにでも考えながら読むものなんじゃないかと思うのである。
| 本ココ! | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0)
新聞社―破綻したビジネスモデル(河内孝) 
評価:
河内 孝
新潮社
¥ 735
(2007-03)
Amazonランキング: 3606位
Amazonおすすめ度:
相変わらず古い体制にしがみつこうとする既存メディア
河内孝、慶応卒の毎日新聞社常務の真摯な新聞社論
ビジネスモデルは確かに破綻している
 出版業界や印刷業界が深刻な不況に晒されていると噂されて久しい。紙媒体のメディアが電子媒体の猛攻に防戦一方という構図が目に映る。本書は紙媒体の情報の親玉である新聞をテーマに現代的課題を分析している。著者は毎日新聞社を定年で退職したいわゆる「新聞のプロ」である。その眼は自社の置かれた現況を説明するのに止まらず、新聞業界全体の行く末を洞察したものとなっている。
 我々のような素人が考えることは、インターネットの発達した未来に新聞はどのような立ち位置で存在しているか疑問符が付くといったものであろうが、新聞社の実問題はそのような未来的な問題以前に前近代的なビジネスモデルから全く脱皮できていない点にあるようなのだ。新聞をはじめとするマスコミは権力の透明性を訴え、欺瞞を暴き、真実性の確保のために日々目を光らせるものであるべきだが、反面、自社のあり方やマスコミ業界の暗部となると途端に沈黙が走るというのだから民衆の信頼を損ねて当然であろう。本書はそうした逆内弁慶を鋭く指摘しているのだが、特に注目したいのは新聞各社による「押し紙」の存在を指摘している点である。新聞社の収益の半分近くを占めている広告料を算出するためにも、新聞は発行部数が生命線であるとされている。この発行部数を水増しするために、契約されていない新聞が大量に販売店に降ろされているというのだ。これを「押し紙」と呼び、新聞全体の発行部数の10%を超えるのではないかとも試算されている。金額にして年間300億円以上の新聞が梱包を解かれもせずに、廃品流れになっているというのだから確かに看過できない問題である。その他、新聞拡張員の強引極まる手法への批判や、今後あるべき新聞社の姿を模索した論考もある。少々専門的な見地からの分析が多く読み疲れする部分もあるが、我々のような新聞読者にとって新聞拡張の現実や押し紙の実態、新聞広告の未来像を知ることは決して無意味ではあるまい。
 今、まさに情報は個々人の選択の時代に入っていると言えるだろう。一方で新聞は全方面的知識を与えるものである。インターネットのように「知りたい情報を取り出すためのツール」が高度に発展した現代は、ある意味で本人の趣味趣向に偏った断片的知識の収集に終始してしまいがちになるものだ。情報と呼ばれるものが「人間の成長・完成」という文明的目標を基軸にするならば、新聞の役割は簡単に終わってもらっては困るというのが私の感想だが、その為には幾重にも亘る課題をクリアしていかなければならないだろう。本書はそうした角度から読む時に一層の価値を見出すことができるものであると思う。
| 本ココ! | 06:55 | comments(0) | trackbacks(0)
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